今日は<笙>という雅楽で使われる楽器の演奏会に行ってきました。
宮田まゆみ 「調子・入調」全曲演奏
宮田さんは私の古い友人。時々コンサートを聞きに行っています。
今回は、
江戸よりも更に古い時代に演奏されていたと思われる曲を
記録から復元して全曲演奏するという
チャレンジャブルな企画で、その前半でした。
鴨長明(かものちょうめい)の時代の秘曲の復元
と言いますから、約900年前くらいの音楽です。
<笙>はそのコンパクトな大きさ以上に迫力のある音をだします。
オーケストラが演奏前にチューニングするとき
コンサートマスターが基準の音を出すと他の楽器が
徐々にそれにあわせて音が膨らんで行きますが、
笙の音のなり始めはそれに似ています。
ただ、雅楽や古い時代の音楽は
一定のリズムやメロディに規則がある西洋音楽に慣れた私(達)には
どう聞いたらいいのかわからない、
というのが正直なところ。
最初は私もそうでしたが、
ある時から、ただ音として聞く、というのが良いのではないかと思うようになりました。
ところで、
私たちの周りには音楽が溢れています。
特に日本は「BGM」という名の半ば強制的な音楽に
四六時中どこにいても曝されています。
実はこれが私にはほとんど「拷問」なのです。
私は何か作業をやっている時、本を読んでいる時、
料理を作っているときでさえ、
BGMは御法度です。
と言うのは、つい「聞いてしまう」からですね。
そして西洋音楽というのは、
必ずメロディとリズムがあって、
強制的に聴かされるのは神経が休まらない感じがします。
その点、本当はいろんな規則があるんだろうけど、
西洋音楽に慣れた耳には、純粋に音として聞くしかない古い音楽というのは
トランキライザーのような役目を果たします。
ところで今日は、時々気が遠くなりながらも(笑)
和音や共鳴する倍音の波を感じながら
ふと思ったのです。
900年前の人たちはどんな環境で聞いていたのだろうかと。
いま私たちは、音楽はコンサートホールや室内など、
閉じられた空間で聞くものだと思っています。
もちろんiPhoneなどで外に持ち出せるけど、
なるべく外の音を遮断して音楽「だけ」を聞こうとします。
また、野外コンサートなどは、大型の拡声器が使われます。
はたして900年前にそんな事は可能だったのだろうか?
特に、木造建築の日本で、外の音を遮断して
演奏だけ聞く事は可能だったのだろうか?
それに、夜の演奏は満月前後以外、出来なかったのではないかしら。
江戸時代までの新月の闇夜は本当に真っ暗でしたから。
松明をたくとしても、どのくらい見えたのかしら。
昼間であれば、小鳥のさえずりや、水鳥の羽ばたき、
夜ならばフクロウの声も聞こえたのでは?
風の音だって遮るのは難しかったのではないかしら。
近くを小川が流れていたら、そのせせらぎだって聞こえたかもしれない。
などと想像を巡らしていたら、
むしろ、そういう様々な自然の音の中で演奏する事が普通だったのではないかな、
と思い至りました。
時と場合には、笙や篳篥といった楽器と、
小鳥のさえずりが共演する事もあったのではないかと。
笙のような楽器の演奏を「曲を演奏する」というより
「調べを奏でる」という方がしっくり来るのは
そのためかもしれない、とも思ったり。
そして日本の楽器が三味線にしても尺八にしても
以外に骨太なのは、自然の中での演奏、
がデフォだったからかもしれません。
そんなことを考えつつ台風が近づく中帰途につきました。
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紀元前につくられたというヴェローナの野外劇場の事は以前記事に書きました。
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