月別アーカイブ: 2013年11月

鹿の話がつたえること / バンビとロビンの図

今日の一枚
画用紙に水彩と色鉛筆

画用紙に水彩と色鉛筆

友人の講演会のチラシのイラストに
鹿さんのリクエストをもらったので、
デッサンに行ってきましたが、
寝てるとき以外、全然じっとしていないんですねえ、これが。

頻繁にピエー、ピエーと啼いて
おしゃべりしていました。

バンビはディズニーの映画で有名ですが、
実は原作があって、オーストリアの作家フェーリクス・ザルテンの
子鹿の成長を綴った児童文学作品です。
Bambi, ein Leben im Walde

絵の鹿さんは、子鹿をモデルにしたわけではないので、
厳密に言うと題名のバンビは「誤表示」かもしれませんが。(今流行の。笑)

鹿の話がつたえること

実は今、各地で鹿の食害がかなり深刻になってきています。
その頭数を減らすこともされているようです。

屋久島でも問題になっていて、
羊歯の芽が若いうちに鹿に食べられてしまいます。

それを検証するために、柵を設け、
鹿がはいれないようにした所は
羊歯が明らかに伸びているのを
私もヤクスギランドで目にしました。

先日、鹿の繁殖行動について研究をされている
麻布大学獣医学部講師の南正人氏のお話を聞く機会がありました。

南氏は宮城県金華山島でニホンジカのフィールド調査研究をされています。

まず、島内の神社にいる150頭の鹿に名前を付けて行く事から始め
シカの繁殖から見えてくる自然界の様子を調査されています。

小さな島の中なので、シカが増えていくと
ミミズやモグラといった地中の生物にも変化が出るそうです。

また、シバはシカに食べられると発芽しやすくなり、
大繁殖するようになります。
ところが、シバは冬に枯れてしまうので
シカの冬の餌が無くなり、クラッシュ(崩壊)が起こり
シカは激減するするのだそうです。
シカ自身が変えた環境によって大きな影響を受けてしまう、
と言うことなのです。

面白いのは、シカに食べられるだけのように見える植物も
自らの生存と子孫を残す戦略を時間と共に獲得して行くことです。
例えばアザミは、シカに食べられる前に花を咲かせるために
芽がでたら、すぐ花を咲かせるようになったり。

南氏は今までに600頭くらいのシカの観察をされてきたそうです。
こういった基礎生物研究は本当に地道で、
すぐ産業に結びつくわけではないけど、本当に重要なので
広く認識されてほしい分野です。

私たち人間だって、自然だし、生物ですから
すぐ役に立つ立たないだけではなく、
自らの寄って立つ生態系について知ることは深い意味があります。

さて、鹿の害が増え出したのはこの15年くらいだそうです。
場所によってはシカに植物が食べられてしまって、
鳥類や蝶類も減っているそうです。

質問タイムに、私が狼の絶滅との関係を伺った所、
狼が絶滅したのはすごく昔で、
鹿の害はこの15年くらいのことなのでそれでは説明がつかない、
里山の減少など複数の要因があるのだろうが、
特定は出来ない、と言うことでした。

ところで、
「シカ自身が変えた環境によって大きな影響を受けてしまう」
という話、私たち人間にも当てはまりそうな話ではないですか?

人間自身が変えた環境によって大きな影響を受けてしまう
もう既にそうなりつつあるのかもしれないけれど、
肝に命じたい問題の一つですよね。

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歴史?あるいはシナリオ? / 秋映えるリンゴの図

今日の一枚
画用紙に水彩

画用紙に水彩

このリンゴは「秋映」という種類で、
まさに、もみじの秋を映したかのような、赤いリンゴです。

リンゴを丸く立体的に描けることは、
絵を描く人の技量の目安になるといいます。
「お盆リンゴ」という言葉があって、
丸いリンゴが上手く描けずに、赤いお盆になることを揶揄します。

さて、このスケッチが、「リンゴ」に見えることを
願いつつ……。

歴史なのか?あるいはシナリオなのか?

ある分野の勉強をする時に、
おおざっぱな歴史を見ておくことは
全体を把握するのに、とても役に立つと思います。

自分で年表を作る、というのも、様々な事象を理解するのに
必要です。

歴史、というと過去のことですが、
今起きていることを、記録しておくことは、
将来見た時に「歴史」になるかもしれません。

同時代の記録を残すことは、思いのほか重要かもしれない、
と思ったのが、原発事故でした。
 
最初は恐怖が先にたってそんなことも思いつかなかったけれど、
2週間くらいしてから、記録を取っておけば良かった、
と後悔しました。

もっとも原発事故は、
その後たくさんの書物が出たし、
東京新聞も時系列に記録していたので、
やらなくても大丈夫でした。

で、今日は、このところの国会での動きを
淡々と時系列で並べてみました。

あまりに急激に法案審理が動いているので
もしかすると、後の時代に「あの時が転換期だった」
と言われるような事態になるかもしれない、
と思ったのです。

以下の、ニュースは、気になったものを
時系列にメモしたものです。
掲載されているサイトのリンクも書いてあります。

2013年10月25日10時15分
特定秘密保護法案を閣議決定 11月上旬にも審議入り
http://www.asahi.com/articles/TKY201310250016.html
2013年10月25日13時21分
NHK経営委員に百田氏ら 安倍内閣、同意人事案を提示
http://www.asahi.com/articles/TKY201310250121.html
2013年11月8日 10:22 (2013/11/8 13:41更新)
NHK経営委員に百田氏ら、国会同意 衆参が可決
12機関29人の人事
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0800C_Y3A101C1MM0000/
2013年11月22日 21時02分
密保護法案:国連人権理の特別報告者 日本に懸念表明
毎日新聞 
http://mainichi.jp/select/news/20131123k0000m030094000c.html

<参考>
(原文)http://www.ohchr.org/EN/NewsEvents/Pages/DisplayNews.aspx?NewsID=14017&LangID=E
(訳)http://freedexjapan.files.wordpress.com/2013/11/e59bbde980a3e789b9e588a5e5a0b1e5918ae88085e5a3b0e6988ee3808ce7a798e5af86e4bf9de8adb7e6b395e3808de3808d.pdf

2013年 11月 22日 21:08
自衛隊員の携行武器制限撤廃へ 
http://jp.reuters.com/article/kyodoPoliticsNews/idJP2013112201002689
2013年11月23日 19時42分
新防衛大綱、民間輸送力を活用 政府、フェリー契約し演習投入
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013112301001898.html
2013年11月24日
国土強靱化、法案名39文字 ばらまき隠しで長文化
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013112402000121.html

2013年11月24日 朝刊
外務省 異例の帰国命令 政務公使、中国に帰任せず
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2013112402000117.html
2013年11月25日 17:32
在日中国人に登録呼びかけ 防空識別圏設定と関連か
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131125/chn13112517330005-n1.htm
11月25日(月)18時47分
NSC法案可決=参院特別委—27日にも成立へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131125-00000117-jij-pol

人の本質は、
何気ない普段の仕草から見えるものです。

何気なく並んだ、この法案審議のリスト。
私には、歴史になるリスト、というより、
なにかのシナリオなのかも、と思えるほどです。

楽園でイヴがリンゴを食べたから
人間は神のように善悪を知ることになった、
らしいですが、
実際は、善をなすことより、
悪に走ることの方が多そうで、
特に、国家権力は平気で嘘をつくし、暴走します。
権力者がやりたいようにやるのは、どのこの国も同じようなものなのでしょう。
何かあった時に一番被害を受ける私たちが
しっかり監視をしないと、いけない所以です。

もっとも、聖書をかじると、
聖書はよく出来ている、と思うのは、
神が人間にチカラを与えると、最初は殊勝にしている人間もやがて
傲慢になり、酒池肉林と争いの限りを尽くすので、
神に罰せられる、
という話が繰り返し繰り返し出て来ることです。

人間って扱うツールは、弓矢からミサイルになっても
全然進歩しないですね。

いい加減にしてくんしゃい、
と声を大にして言いたいですね。

アートな一期一会 / 紅葉とドングリの図

今日の一枚

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク


赤や黄色に色づいた葉っぱが
ハラハラと舞う季節です。

これから一ヶ月、冬至まで昼間の時間がドンドン短くなります。
4時には暗くなりますから、
ちょっと時間を損したような気がするくらいです。

しかし、
インターネットのなかった時代は、
ほんとうに「秋の夜長」でした。

ちょっとしたことが簡単に調べられるようになった反面、
気をつけないとSNSで過ごして、
長い夜が味わえなくなっているのかもしれません。

一期一会の感動

さて、時間ではなくお金の話です。
今から考えると不思議なくらい
お金は汚いもの
だから売り絵は描いちゃいけない、
みたいな風潮が長らく美術界にあったように思います。

美術界だけではなく、
「お金のために働いてるんじゃない」
という一種の気概が、日本をGDP世界一に押し上げたのは確かです。

しかし、皮肉なことに、それがそのうちサービス残業に化け、
過労死なんて言葉まで生む状態に繋がって行きます。

そしてむしろ、311以降には
私たちが思っている以上に、日本社会が拝金主義になっていたことを
思い知らされます。

まさに「命か金か」みたいな状況が出現したわけですが、
今日は、話をアートに限りたいと思います。

資本主義社会である以上、
すべてのものと交換可能なのが
今のところ貨幣しかないので、
人の能力やアートの価値も「お金」で換算される、評価される、
というのが基本です。

それは必然的に「売れる」ということを意味します。
「売れる」ということは、もちろん凄いことです。

というのはやはり、
人は自腹を切ったものに対してはそれなりのコストパフォーマンス
を要求しますから、対価に対しては評価が厳しくなります。

ですから、売れるものはある程度以上の評価がある、
と考えていいと思います。

しかし一方で、
資本主義とは、資本側が非常に恣意的に
その「売れる」状況を作れることも意味します。

言わばマーケティングです。

特に、テレビと徹底したマーケティングに免疫のない日本社会は、
資本の雨霰と降り注ぐ情報の送り手側が、
かなり恣意的に、その「売れる」状況を作ることができます。

アートの場合、
もちろん基本はその作家の作品の評価です。
作品が一定水準以上でなければ、
売りようがありません。

しかし、最近はやたらと
「物語り」を流布することで、
作品の評価とは別の意味合いを、その作家の存在に持たせることもあるようです。

例えば,日本画家松井冬子さんの場合、
ご本人の作品を語る時になぜか、
「美しすぎる日本画家」と言った形容詞がつけられます。
そしてその絶世の美女が、何浪もして芸大に入り、
女性として博士号を初めて取った、
となれば、話題につきません。

誰でも、美人は好きです。(笑)
そして、松井さんは本当に美人。
でも、その事と、松井さんの作品の評価は関係ありません。
松井さんの絵が売れるのは作品がいいからです。
でも、展覧会場に沢山人が行くのは
もしかしたらマーケティングの成果かもしれません。

実は私たちは、作品と作者を結びつけがちですが、
これはあまり作品鑑賞にはいい影響を与えるとは思えないのです。

もちろん、作者の人生があって作品があるわけです。
それでも、
まず純粋に作品に接することを習慣づけたいです。

時代背景など知っておくと理解が深まる、
ということもあります。
それでも、
なるべく初めてのデートをするような気持ちで
作品と接してみてほしいと思います。

5年ほど前に、夫とフィレンツェに行ったことがあります。
ルネッサンスへの道を開いたとされるマサッチオの壁画を見に
教会へ行ったところ、
その肝心なマサッチオの絵を見ずに、夫はひたすら天井を見ているのです。

どうしたのか訊ねたら、
「凄いね〜、この教会、外から見ると3階建てなのに、中は五階建てなんだね」
と言うわけです。

その丸天井には、壁画がが描かれていたのですが、
柱や破風が描き込まれていたので、
さらに上の階がある、と夫は思ってしまったのです。

簡単に言えば「騙された」のですが、
しかし、その時の夫の感動は本物のわけです。

その後、天井画で有名な教会へ行っても
夫はもう、それが絵だと知っていますから、
絵にしか見えません。

一期一会。
その時かぎりの感動。
絵やアートだけでなく、
音楽や文学にもあるでしょう。

情報過多の時代、
あえて物語りに耳を傾けない方が
心の目で作品を見ることができ、
いい出会いがあるかもしれません。

ネットの無かった時代、
長い夜に読みふけった本が
一生の友になるように。

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立場で語る人たち / ムクドリのスケッチ

今日の一枚
スケッチブックに水彩と色鉛筆

スケッチブックに水彩と色鉛筆

ムクドリはどこにでもいる鳥ですが、
群れをなして移動するので、
ビックリする事があります。

今日も、隣の家の前の電線に50羽以上止まっていました。
ジュルジュル、ジュルジュルと
外で変な音がするな、と思ったら、ムクドリの大群でした。

以前は、150メートルくらいはなれた大木に集まって
ネグラにしていたようなのですが、
少し前にその木のところを通ったら、
上の方の枝がバッサリと削られていました。
鳥の都会暮らしも、なかなか大変です。

スケッチは、「鳥の博物館」で剥製を描いたもの。
12月1日まで鳥の博物館では、
「鳥の骨展- 空飛ぶ骨組み-」をやっています。

最近、ようやく鳥がなぜ飛ぶのか、
なぜ風切り羽根は左右対称でないのか、
かなり、その仕組みが飲み込めてきました。

写真でも飛んでいる鳥を撮る事は大変ですが、
仕組みが分かれば、
自在に鳥を飛ばせて描くことができるようになります。

ムクドリは飛ぶと腰の白い部分が目立つので
遠くからでも分かります。
くちばしで羽繕いをしている様子は、
猫の毛繕いにも通じる可愛さがあります。

立場で語る人々が作る未来

311以降の現象を表す言葉の代表格に、
「今だけ、金だけ、自分だけ」とともに、
「東大話法」があります。

その「東大話法」という言葉の生みの親、
安富歩氏の「学歴エリートは暴走する 〜『東大話法』が蝕む日本人の魂〜」
を2週間ほど前に読みました。
示唆にとんだ内容だったので、
まとまった感想を記す事にします。

安富歩氏の「東大話法」関係の著書は4冊ほどあるようですが、
私は今回初めて拝読。
というのも、実は「東大話法」そのものには、あまり関心はなかったのです。
しかし、本屋さんで手に取ってパラパラと見ていたら、
学歴エリート(主に東大出身者)の戦前からの流れが書いてあって、
興味がそそられました。

というのは、今の日本の混乱は、
どう考えても、戦前と戦争の総括が出来ていない事が要因だと
私には思えてならないからです。
そして、この本で、安富氏はこの総括を試みてくれました。

まず、第一章でさまざまなデータとご自身の経験から
「学歴エリート」の定義が行われます。
それによりますと、どうやら
「相手が求めている答えを察知する能力の高い人」
が「学歴エリート」ということになりそうです。

もう少し詳細すると、
「空気を読む」能力が高い上に「気のきく事務屋」で、
自分の意志よりも「自分の生き方を肯定してくれる場所」を目指してる、人々。
ということになりそうです。

ところが、平時ではなく、判断や決断が求められる時には、
「相手が求める答え」がないために、
またプライドがあるために、「気のきく事務屋」は混乱します。
安富氏は「気のきく事務屋」がリーダになって暴走した例として、
長銀(日本長期信用銀行)の末路をあげています。

次いで、第2章で「学歴エリートのルーツを探る」作業です。
安富氏は、学歴エリートは
バブルをいまだに引きずっているのはもちろんの事、
どっこい、バブルだけではなく、戦後も引きずっており、
実は戦争そのものが終わっていなかったのだ、
と喝破します。

え?
と思うでしょうが、
戦前戦中で中心になって動いた学歴エリートが
実は、戦後も立場を変え、役割を変え、
日本を引っ張って行った事実を、
具体的に名前や事例を挙げて説明して行きます。
現総理のおじいさん、岸信介の例もでてきますが、
この章は、今の混乱を知る上で、お薦めです。

そして、戦争を始め、戦争に負けて、
戦争をなかった事にしたい「立場」の学歴エリートが築いた経済成長は
経済戦争という名の新たな戦争であった、
というのです。

さて、この第2章に「立場三原則」という言葉がでてきます。
① 役を果たすためには何でもやらなくてはいけない。
② 立場を守るためには何をしてもいい。
③ 人の立場を脅かしてはならない。

原発事故後の御用学者、
と言われる人たちの行動そのものではないですか。

さて、安富氏はこの3原則がこそが真の日本国憲法だとして、
そのルーツを明治維新に求めます。

以下p75より引用。

江戸時代までは日本人は「家」を単位に生きてきました、これが明治維新によって近代国家における「国民」という概念にかわりました。「家」を守るために命をかけて、切腹までしてきた日本人が、今度は、徴兵制度で「お国のため」という事で、一人一人が「国民」という「立場」を与えられ、それにともなう「兵役」を始めとした役を果たさなければいけなくなったのです。これが出来た者は「立場」が守れますし、できない者は「役立たず」と呼ばれました。(略)
こうして「役」を果たすためにはなんでもしないといけないし、そのためなら何をしてもいいという日本独自の倫理観が誕生して、これは現在までなんら変わること無く続いています。

加えて、基本的人権など、「立場」の前には簡単に踏みにじられる、
とも言っています。
思い当たりますよね。

この2章の最後に、陸軍の参謀という学歴エリートがでてきます。
参謀というのは作戦を考えるのが仕事の人で、絶大な権限があったのです。
彼らは超難関の試験を突破して陸軍大学校に入学し、
戦術を中心に学んだらしいのです。

ところが、この「参謀」たち、
驚くべきことに、
「責任を問われない」という待遇を受けていたのです。
参謀はあくまでも「作戦」を考えるのみで
責任は作戦を採用した指揮官というシステムだったそうです。

さて、以前、「陸軍登戸研究所」の映画を見て
記事を書いた時に、まるで、将校がゲーム感覚である印象を受けた、
と私は書きました。
兵隊に兵站を現地調達させるために偽札を作ったり、
和紙とコンニャク糊で直径10メートルの風船爆弾を作ったり、
荒唐無稽とも思える作戦は、
こういう責任をとわれない参謀からでて来たのか、
と本を読んで、妙に納得してしまいました。

以下、p79より引用

どんなムチャクチャなことをしても「立場」が守られる「参謀」という制度は、陸軍のみならず、日本の官僚システムに浸透しているような気さえします。

この問題の根は深いです。
原発事故後も必死に隠蔽して
今度は「秘密保護法」なる法律で
自分たちの立場を守ろうとする官僚ですが、
私たちは選挙で選べない、
つまり、是正する方法が極端に少ないのです。

3、4、5章は、
2章のようなルーツを持つ学歴エリートの
戦後の所業の事細かな観察と分析です。

詳細は本書に譲るとして、
「学歴エリート」がすごいと思ったのは
つじつまが合わないことも自信満々に話すという
「東大話法ルール⑤」で作る、キャッチフレーズです。
「もはや戦後ではない」から始まって、
参謀の面目躍如で国民は見事にその気にさせられてきました。

それから、意外に知られていないのが、
叙勲制度も実は官僚に裁量権がある、ということです。
安富氏は、叙勲などをありがたがるのも
「スペック戦争」と指摘します。

そして「おわりに」で、かなり怖いことを書いています。
アベノミクスは、無意識の破綻願望の現れだというのです。

以下p181より引用

つまり、過去から学べば、崩壊しているものを存続しているのだという“ふり”
をしている時というのは、既にその先にある「心中」を考えているということです。
これは裏を返せば、その「心中」を無意識に望んでいるからこそ、現実からかたくなに目を背けて“ふり”を続けるのです。
翻って今の状況はどうでしょう?アベノミクスという“ふり”を続けながら、中国や韓国に対して強硬な姿勢を崩さない。環境は整いました。あとは、すべてをリセットするため、安倍晋三首相が「一億火の玉」を言い出すだけです。

しかし、そのあと安富氏は、
このような「立場主義」から脱却するにはどうすればいいのか、
についても、まだ思考の途中でありながらも、提示してくれます。
それについては、実際に本書をお読みください。

なお、その答えではないけれど、
本書の中でいい言葉だと思ったフレーズを2つ。
「先祖になる」勇気を持つ。
そして
「私」を視点とした「私の世界史」の歴史を描く」

前者は、「はじめに」の最後の一節で、後者は「あとがき」の最後の方の一節です。

この新書版は、全てが安富歩氏の書き下ろし、ということではなく、
安富氏と編集者の話をライターの方が書き、
最終的に安富氏が手を加えたようです。
満州の経済史研究もされていて、
人間社会はなぜ暴走するのかに興味がある学者の
手軽な「学歴エリート史」として、
簡単に読めて、歴史的な俯瞰もある本でした。
特に2章はお薦めです。
学歴エリートを知ることは
日本社会の仕組みを知ることに他ならないからです。

鳥の飛ぶ仕組みを知れば、鳥が描けるようになります。
社会の仕組みを知れば、
社会の未来が描けるようになる可能性はグッと高まるはずです。
私たち一人一人が、誰かの「先祖になる」勇気を持つことで。

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自分のために歌う / わた がはじけた!の図

今日の一枚

スケッチブックに色鉛筆と水彩

スケッチブックに色鉛筆と水彩


以前の記事、スケッチ わたのはなしべひらく
で花の咲いた綿でした。

ついに先日、その実がはじけて
コットンボールが顔を出しました。
まさにふわふわと綿のよう。(笑)

綿はアオイ科の植物。
起源が分からないくらい古〜くから栽培されていたようで、
牧野の植物図鑑によると、東アジア原産だそうです。

そう言えば、9月に東京国立博物館で特別展示された酒井抱一のまき絵にも
しっかりコットンボールが描かれていましたっけ。

花が咲いたあと、一センチくらいの白い実がズンズン大きくなり
緑色のラグビーボールのような固くて筋が入った
直径3センチ長さ4センチくらいの
実になります。
まだかまだか、と思っていると
ある日、絵の中の右上の実のようにボールの筋から
カパッと開いて中から綿が出てきます。

その白い綿は、絵の下の実のように、
徐々に外にせり出してきます。
手で触ると、ふわふわの綿の中にしっかりタネが。

人間との付き合いは長いとはいえ、
別に綿は人間のために生まれて来たわけではなく、
綿自身の生き残りをかけた戦略上、
ふわふわの綿の中にタネを収めることになったはず。
風に飛ばされて遠くにいくためか、
寒さや乾燥からタネを守るためなのか、
いずれにせよ、人間はちゃっかり、そのタネを包む綿を
紡いで、布を作ったり、布団の中綿にしたりしたわけです。

自分のために歌う、自分のために生きる

水曜日11月13日の日経の夕刊に、
歌手都はるみさんのインタビューが載っていました。

十六歳でデビューして、1984年末に一旦、引退。
確か「ふつうのおばさんになりたい」と言って。
五年後に復帰した時のエピソードです。

シャンソン歌手のエディット・ピアフのドキュメンタリー番組を見て、
「自分のために、自分が歌いたいからという理由で歌っても良いのか」
と目から鱗が落ち、歌手復帰をその場で決めたそうです。

休業前の都さんは、
売れてなんぼで、賞を取って認められる事ばかりを
追及していた、と振り返ります。

考えさせられる記事です。
売れるために歌う。
賞を取るために歌う。
お金のために歌う。
名声のために歌う。

もちろん、お金という対価が払われる事は
いい加減な気持ちでは受け止められない事です。
対価のお金には人々の汗がしみ込んでいるからです。

しかし、もし、コストパフォーマンスだけをいうならば、
歌う都さんは歌う度に「取引き」だけをしていることになります。
それでは疲れてしまい、スカスカになってしまう。
だから休業することになったのかもしれません。

休業前の都さんは「なんで自分はこんなに不幸なんだ」
と思っていたそうです。
お金も名誉もあるのに。

都さんに取って、歌う事は生きる事です。
「自分のために歌う」は「自分のために生きる」に置き換えられないでしょうか。

私たちは「社会に役に立つ人間になれ」
と言われて育ちます。
それ自体は間違ってはいないのでしょうが、
重要な事が一つ欠けていると思います。

「自分のために生きつつ、社会の役に立てるように」
というのが本当なのではないでしょうか。
社会は個人の集まりです。
もし、社会があっての自分しかなければ、
それは社会の一員かもしれないけれど、
同時に歯車になりかねません。

311以後、私を震撼とさせた言葉のひとつに、
「自分だけ生き残りたいのか?」があります。
放射能を避けて避難したり、
汚染されていない食べ物を食べさせたくて、
子どもにお弁当を持たせようとしたお母さんたちに浴びせられた言葉です。
私は、この言葉に、ずっと薄気味悪さを感じていました。

誰かの命は持ち主以外、誰のものでもないはずです。
誰だって生まれたからには生きたい。
そう思う事が「エゴ」とされる社会。

でも、自分の人生を自分で愛せなくて
何の人生か、とも思うのです。

名声のためではなく、歌いたいから歌う。
生きたいから生きる。
自分を愛せない人が、他者を愛することは出来るのでしょうか。

私たちの社会では「人に迷惑をかけない事」が美徳とされています。
しかし、自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が、
日本では突出して多いのです。

日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字より
日本 38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ 7%
中国 9%
インド 8%

リンク先を見ていただければ、ソースがありますから是非見て下さい。

冷酷な社会のように見えますが、
むしろ、自分を本当に大事にする事、「自分のために歌ったり、生きたりする事」
が出来にくいから、こういう数字になるのではないでしょうか。

実は、この「自分のために生きる」、
反対方向に突き詰めて行くと、
社会のために生きる → 国のために生きる → 国のために死ぬ。
ということになりかねないのです。

311以降の「自分だけ生き残りたいのか」
という言葉はファシズムとも親和性が高いのだと思います。

むしろ、
「自分だけ生き残りたいのか」と言われたら、
「自分は生き残りたいし、あなたにも生きてほしい」
と言える社会の方がどれほど前向きでしょう。

多くの人が毎日社会のために懸命に働いています。
同時にその人たちにも家族や自分の人生もあるし、
またいつ、事故に遭ったり病気で働けなくなるかもしれません。

綿の実が自分の生き残りのために紡いだ綿が人に役に立つように、
誰でもが少しでも「自分のために歌う」ことが、
同時に人々のために歌う事になる、
という方がずっと楽しいはずです。

もし、隣の人が「自分自身のために楽しく歌っている」
のを見たら、「あいつだけずるい」なんて叩かず、
自分も自分なりに楽しく歌いたいものです。

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自分のメディアを持つこと / カラスウリの図

今日の一枚
アルシュ紙に水彩、色鉛筆

アルシュ紙に水彩、色鉛筆

カラスウリの花は、夏の夜に白く咲き、ガがその花粉を運びます。
その五弁の花から細く長い糸がたくさん出て
熱帯夜の夜に絡み付くようにあやしく光り、
ガが吸い寄せられるかのよう。

秋になると、この絵のような長さ4、5センチ、直径3センチくらいの
俵型の赤い実を付けます。
黄色い種類はお化粧品の材料としても使われるようです。

自分のメディアとしてのブログ

このブログを始めて10ヶ月。
今は一日に平均5〜60人の方に来ていただいているようです。

もう、10年以上前になると思いますが、
テレビ朝日の「朝まで生テレビ」で
インターネットがテーマだったとき、
子飼弾さんが、
自分のメディアが持てる時代
とインターネット時代のことを表現していて、
とても印象に残っています。

私は、団塊の世代より少し下の世代です。
多分、学生時代の同級生などと比べるとネットに親しんでいるほうでしょう。
20年くらい前に、建築CADのオペレーターをやっていた事もあり
何の抵抗も無く、Macユーザーになりました。

と言っても、
今のCGの進歩などにはついて行けませんし、
ついて行く必要もないと思っています。

CGの世界は、もう、手描きがいらないのではないか、
と思われる程の進歩です。

それでも、私は手描きにはCGにはないチカラがあると思っています。
それは、写真が登場しても、「肖像画」という分野が無くならないことからも
分かります。

ただ、ITは、特別な人のものであったアートを
万人に開いたと思います。
ある程度のセンスがあれば、
かなりの表現ができるようになりました。
最近は3Dプリンターも出て来て、
立体すら、アイデアがあればかなりのことができるようになってきました。

写真の世界もデジタルカメラで様変わりしました。
やはり、素人の参入がとても簡単になりました。
もともと写真は詳しい人が多いし、昆虫を撮り続けたり、
カワセミの写真集を出す人などもいるようです。
写真ブログは見切れないくらいたくさんあるし、
イラストのブログもランキングに600以上登録されています。

それでも、スタジオ撮影や物撮りは
専門家の牙城です。
先日、テレビで、四万十川のカワセミを現場でカメラマンが撮れず
東京で撮ったものを放映して問題になりました。

自然相手では、人間の思い通りにならないことがほとんどです。
自然を撮影するカメラマンの仕事は「待つ」ことだと言っても過言ではないでしょう。
時間のある時に撮影する素人ではやはり出来ないこともたくさんあります。

物書きも同じようにある程度の受難は
免れないかもしれません。
ネットには、玉石混合とはいえ、
溢れる程のブログがあって、多くは無料で読めます。
もちろん、堀江貴文氏や津田大介氏のように、
メルマガを発行してそれなりの収入がある人は、
現実世界でも本を出しています。
よほどの内容がない限り、メルマガを購読する人は多くはないはずです。

ネットはウソばかりデマばかり、
というのは一面で、
ある面、とてもリアルを反映しているのです。

そんな中、私がメディアとしてブログを運営するには
大きなモティベーションがなければなりません。

最初は、細々と描いて来たデッサンを見てもらうつもりで始めました。
しかし、そのうち、もっと積極的にメディアとして使いたい、
と思うようになってきました。

9月くらいから試行錯誤で、
小さな彩色画を週2回くらいあげるようにしています。

大きさはハガキ大くらいからB5くらいの小さなものですが、
8割以上完成していること、
と自分に課して、描いています。

大変なこともあるのですが、自分のメディアを持っている、
ということは、良い意味でプレッシャーになり、
一日くらい遅れることはあっても、
なんとか頑張れるのです。

私の世代になると、仕事や要職についている人以外は
食べ歩いたり、旅行したり、
家ではDVDやテレビを見て過ごしています。

私は、パソコン業務のアルバイトをしながら
せっせと絵を描いているわけです。

テレビは面白くないし、
311以降、世の中のゆがみがひどくなるし、
外食も味付けが似たような感じで美味しくなくなって来たし、
普通に暮らしていたら愚痴ばかりになりそうですので、
時間を見つけてひたすら描いています。

それが出来るのも、
こうやってブログを運営して不特定多数の人が
見に来て下さるからです。

また、里山活動をしているNGOの機関誌の表紙も
2年前から引き受けています。
報酬はないのですが、様々な条件下での、
技術の試行錯誤がとても面白いです。
こちらは紙媒体ですが、やはりメディア。

藝術というのは、作り手だけでは成り立たないのです。
ブログという世界に広がったメディアを持つことの意味が
増すこの頃です。

本家のホームページも、自分で作りました。
ご覧になってない方がいたら是非見て下さい。
マダムかよこのアトリエ
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↓ 猫好きの方へお薦めカレンダー

   

私がツイッターにハマるわけ / イヌタデとツユクサの図

今日の一枚
アルシュ紙に色鉛筆、水彩、ガッシュ

アルシュ紙に色鉛筆、水彩、ガッシュ

私は、何故か、花の咲かない羊歯や路傍の小さな野草に引かれます。
今日は、イヌタデとツユクサ。

庭のヒメコブシの木の下に、モサモサとまとまって
イヌタデが生えて来て、そのピンクの実をくねくねと
お互いに絡ませます。
その間に覗かせたツユクサの透明な青が印象に残ったので
描いてみました。

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さて、SNSは、ミキシィ、フェイスブック、LINE
などいろいろありますが、私はやはりツイッターが一番好きです。

ツイッターの面白さは、その開放性と機能性、速報性です。
ミキシィなど前者三つは基本的には、現実での人間関係をネットに反映して広げたもの。

しかし、ツイッターは全く知らない他人と、
140文字の文章だけで交流出来るものです。
登録すれば、ロム出来るし、
別に交流しなくても自分で呟くだけでも良いし、
フォローしあえば、ダイレクトメールも送れる。
アカウントが匿名でも登録出来る事も多くの人の敷居を低くしているでしょう。

聞いた話では
ミキシィは大学生に人気、
ファイスブックはビジネスマン、
LINEは中高生とか。

いずれにせよ同じような境遇だったり、
価値観の人たちが集う事が多いでしょう。
一方、ツイッターは、実に多様な職業や年齢の人たちの
幅広い意見や考えを読むことができます。
タイミングがあえば、リアルでは知り合わない人とも
会話を交わすことができます。

いろんな人がいて、いろんな考えがある、
という当たり前の事を
ツイッターは教えてくれます。
実は日本には多様な意見と能力に溢れているのだ、
と毎日思い知らされています。

特に普通の市井の人々のツイートがすばらしいのです。
目から鱗、ということも度々です。

この多様性こそが私がツイッターにハマる
大きな理由です。

しかし一方で
冷蔵庫に入った写真をのせるとか、
有名人のクレカのサインをのせるとか、
非常識極まりない使い方をする人もいるし、
Lineではつい最近は高校生が殺されるという悲劇まで起こりました。
本当に悲しい事です。

拡散、コピーというのはネットの宿命です。
ネットに載せたものは、たとえミキシィ、フェイスブックでも
コピーされたらおしまい。いくらでも流出します。

私がかなり心配するのは、
可愛いのは分かるけど、自分のお子さんの写真を顔が分かる形で
アップする人が意外にいる事。
これは、出来るだけ止めた方がいいでしょうね。

あと若い女性は、今どこにいる、なんて移動する度に呟くのは絶対止めた方がいいです。

「ネットに一度あげたものは消すことは出来ない」
「世界中の人間が見ている」

と思って記事も写真も呟きもアップするくらいが良いかな、
と思っています。

それでも、基本的なやっちゃいけない事を押さえておけば、
ネットは素晴らしいものです。
集合知です。
専門家の論文から、アイドルの呟きまで読めます。

おまけに、ブログなど、自分自身がメディアになる事も出来ます。

道具は何でも使いよう。

特性を知って、そのためには少しは調べて、
うまく使って行きましょう。

そうそれから、私も時々やっちゃうけど、
時間管理。
これは中高生でも問題になっているようです。

私の場合は、職場以外は、夕方までパソコンは開かない、
そしてスマホは持たないことにしています。
と言っても、調べものが出来て開いて、ツイッター覗いたら会話が弾んで……、
みたいな事は少なくありません。

ツイッターをブログの宣伝だけに使う人もいるけど
それももったいないような気がします。

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