カテゴリー別アーカイブ: わかりやすい絵の話

何事も基礎が大事だとおしえてくれる、フリーハンドロゴの映像

ユーチューブで100万回以上再生されている
ロンドンのデザイナー、セブ・レスター氏が、フリーハンドで
有名な企業のロゴを再現する映像です。

AMAZING! Artist Seb Lester freehand famous logos

私がこの映像を見て、一番に思ったのは
このセブ・レスター氏のカリグラフィーの基礎力の凄さです。

と同時に、海外、特にアルファベットの世界におけるロゴは
やはりカリグラフィーが基礎なのだ、という事に気付かされました。

今カリグラフィーと言うと、多くの日本人はデザイン文字を思い起こすでしょう。
しかし、実はアルファベット世界では、印刷の無い時代、
もっと古い時代の聖書の写本などに、カリグラフィーは使われていました。
日々の修道士や教会関係者がごく普通に使うものだったのです。
その事を深く印象づけられた映画を、去年見ました。

「大いなる沈黙へ」

この映画は、グランド・シャルトルーズ修道院という、
男子修道院の生活を描いたものです。
この修道院はフランスアルプスの山中の陸の孤島のようなところにある、
(少なくとも私にはそう見えた)
カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の修道院です。

映画自体は、淡々と修道僧の日常を描いて行くだけですが、
修道院の要望で一切音楽がつけられていません。
そして修道士たちも、決められた時以外一切会話を交わしません。
まさに全編を「大いなる沈黙」が覆っている映画です。

映画評などはもっと得意な人に任せて、
私がこの映画でビックリした事、そして多分誰も指摘しない事に、
修道士のこのカリグラフィーの技量の素晴らしさでした。

映画の後半に、修道士が、日記か、あるいはメモかは分りませんが
横に線の入ったノートに、上の映像でセブ・レスター氏が使うよりもっと素朴な、
先が平たいペンで文字を書き付けて行くのです。

とにかく驚いたのは、そのスピードの速さ。そしてその美しさ。
息づかいもほとんどしない間にサラサラと書き進めて行く文字の美しい事。
そしてまさに、いま私たちが見るカリグラフィーが、
ごく普通の生活の一部として息づいているのを見た瞬間でした。

昔の写本がどのようなものか、お示ししたいので、ネットを探したら、
イギリスの図書館のアーカイブを印刷できるページがあったので、
リンクを貼っておきます。

Preface to St Mark’s Gospel in the Lindisfarne Gospels

このページは、↓この本に載っていたので、検索したら出て来たものです。

この字体はケルト風ですが、他にも、ゴシックとかロマネスクとか
ルネッサンスとかネオクラシカルとかあります。
上の映像で出て来る「ハリーポッター」のロゴはロマネスクかもしれません。
アディダスですら、何かの字体からヒントを得ているはずです。

セブ・レスター氏の技量は素晴らしいものですが、
それはカリグラフィーの基礎に裏打ちされたもので、
決して、手先のアクロバットではありません。

ちなみに、昨年の私の個展のハガキの題字は、ルネッサンスネオクラシカル、
という字体から取りました。
自分でいい加減に作ったものではないのです。

20140708DM

セブ・レスター氏の技量が神業なのは、
真っ白でまったく当たりになる横線が無い紙に描いている点です。

日本の企業のロゴは分りませんが、
海外の企業のロゴは、もしかすると相当数カリグラフィーから
生まれているかもしれませんね。

今まで見過ごしがちだった、アルファベットのロゴを
「カリグラフィー」という視点から見るのも楽しいかもしれません。

春爛漫の さくらの名画

最近は、さくらと言えば、ソメイヨシノ。
東京は、ソメイヨシノが盛りをすぎ、ハラハラ花びらが舞い始めています。
ソメイヨシノが実はほとんどすべて接ぎ木のクローンである
という事は有名な話しです。

葉が出る前に花が密集して咲き、
散る風情がまさに「花吹雪」なので、
人気なのかもしれません。

クローンであるためか、育つのが早く、
街路樹に使われて増えたこともあるのでしょう。

で、さぞかし、沢山ソメイヨシノを描いた名画があるだろうと思うと、
残念ながら、ソメイヨシノが植えられるようになったのは、
江戸の終わりからで、むしろ現代の作家の方が
手がけているようです。

で、私の一押しのさくらの絵は、明治から昭和にかけて活躍した松林桂月の作品
「春宵花影図」です。
近代美術館の所蔵で、没年が1963年で、没後50年過ぎているとはいえ、
著作権が微妙なので、しかも、国立美術館のアーカイブは転載禁止なので、
リンクだけ貼っておきます。
春宵花影図(1939)
拡大図

墨と胡粉で妖艶なまでに月に浮かぶさくらの枝が描かれています。
古典的な技法を用いて、実にモダンな墨絵を作り上げる事に成功している作品です。
種類は葉がそこかしこに見えるのでソメイヨシノではないでしょう。

もう一枚は、横山大観のかがり火と組み合わせた「夜桜」
こちらは大倉集古館蔵。
右上に描かれた山に半分かくれた月の白さと
かかり火の赤と空の群青とが、さくらの大木を包みます。
こちらも葉が描き込んであるので、
ソメイヨシノとは別種のよう。

ソメイヨシノは、エドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で
生まれたと考えられているようです。
その原種であるオオシマザクラのスケッチを上げておきます。
これは去年描いたものです。
花のつき方が密集していて、ソメイヨシノと似ていますが、
可愛い緑色の葉と花びらには斑がかかったようにピンクがさしています。

20150402oshima

さて、松林桂月の作品が、1939年(昭和14年)開催のニューヨーク万国博覧会
の為に制作された作品である、という事は気にしてみたいと思います。
満州事変が起きたのが昭和6年で、真珠湾攻撃は1941年12月8日。
充分にきな臭い時代に、こういう妖艶な絵が描かれた事は何を意味するのでしょうか。
芸術家特有の嗅覚が何かを感じ取っていたのかもしれません。

それにしても、
花びらが散るのは本当にきれいですが、
散るのは花びらだけにしておきたいものです。

体力勝負の花鳥風月

昨日はアンズの木を描きに行ってきました。

水曜日に見た時には、花が満開で
数羽のメジロが花の蜜をもとめてひらひら。
昨日は花は少し盛りを過ぎましたが、十分きれいでした。

アンズや椿など昆虫の少ない時期の植物は
鳥が花粉の媒介となることが多いようです。

アンズの花とメジロという、いかにも花鳥風月の絵になりそうな題材です。
しかし、鳥も木も現場に行かないと見ることはできないので、
野外でデッサンすることになり、実はそれは思いのほか体力勝負なのです。
描いている間もほぼ半日立ちっぱなしです。
印象派の画家がイーゼルと折りたたみの椅子を持って野外で制作しましたが、
イーゼルを運ぶとしても、それも一仕事です。

何しろお弁当やら絵の道具を入れた荷物だけでもかなりの重さです。
以前はリュックサックに詰め込んで行っていました。
しかし、お弁当と絵の道具、そして一眼レフを入れるとずっしり。
カメラは一次的にはあまり役に立たないのですが、
やはり動く鳥たちを描くときには、おおいに補助になります。
というわけで、重たくなる一方の荷物を、
今回は試しにキャリーバックにしてみたら、ずっと楽でした。
もちろんこれも、舗装してある道を行く時だけです。

IMG_0089

屋久島の森で再びデッサンするとしたら、
特別に筋トレしないと、もう無理かもしれません。

さて、アンズはウメに似ています。
どちらもバラ科サクラ属の落葉小高木。
花びらは丸く、ウメには八重や濃淡いろんな種類があります。
アンズの花は、多少の濃淡はあるものの薄いピンクです。

両者の花の一番の違いは、
アンズは花が開くと額が反り返る点でしょう。
また、ウメの方が少し早い時期に咲きます。
ウメや山茶花はブルブル震えながらデッサンしますが、
アンズの時は少し楽です。

そしてどちらも6月に実を結びます。
ウメの実には毒があるので、梅酒や梅干しなど加工しますね。
アンズはきれいなオレンジ色の実です。そのまま食べられて、
ジャムにも加工されます。
アプリコットジャムです。

ちなみに「梅にウグイス」と言いますが、
あのうぐいす色の鳥はメジロでウグイスではないのです。

ところで、木は縦に長いので、デッサンするとき大きな紙を折り畳んで
少しずつずらしたり、部分を描いて繋げたりしています。

↓これは、家に帰って、今日のデッサンを繋げてみたところ。
IMG_0090

花が咲いていると、複雑に絡んだ枝の見分けが、
冬木立より遥かに楽です。

さくらのたよりもちらほら。
春本番です。

些細なことが完璧を作るが、完璧は些細なことではない

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

表題の言葉は、ミケランジェロの言葉です。

「些細なことが完璧を作るが、完璧は些細なことではない」
ネットで調べたら、

サミュエル・スマイルズという人の自助論 ~新訳完全版~」に出て来るようです。
グーグル・ブックスで少し読めます。

しかし、一方ドラクロワは
「何事にも完璧を求める画家は、何一つ成し遂げられない」
と言っています。

ドラクロワは
「民衆を導く自由の女神」で有名な、19世紀ロマン主義を代表するフランスの画家です。

上の二つの矛盾するような言葉ですが、
実は、同じ事を二つの方向から言っているように思えるのです。

「ひとつ一つ、小さな些細な事を丁寧に、積み重ねていけ」

こういう事だろうと思うのです。

一枚のデッサン、スケッチブックの片隅のエスキース、小さなイラスト。

それらは完璧ではないかもしれなけど、
いちまいいちまい些細な事に手をぬかずに描いて
いちまいいちまい積み重ねていけ。

千里の道も一歩から。

そうやって積み重ねていった先に出来る世界は些細な世界ではない。
そういう事だろうと思うのです。

東京港野鳥公園でボランティア活動をしている
グリーンボランティアの機関紙の表紙を描き始めて
3年経ちます。

リソグラフという昔の謄写版印刷のような手作りの機関紙で
表現に制約があり、それ故にいろいろ工夫を重ねて来て、
「スパッタリング」という方法にたどり着きました。

歯ブラシに絵具を付けて網で擦ると
キメの荒いエアブラシのような効果が出ます。
小さい時にやったことがある方もいるのではないでしょうか。
去年の一月から12月までをアップします。

ケント紙にグラフィックペン ケント紙にグラフィックペンと水彩 20140215

20140325 20150101_4  20140807

20150101_1 20150101_2 20150101_3

20150101_5 20150101_6 20150101_7

どちらかというと、年末企画風ですね。
でも、
今年の目標を何にするにせよ、
疲れたり行き詰まったら、
「些細な事が完璧を作るが、完璧は些細な事ではない」
という言葉を思い出して欲しいと思い、
元旦の今日のテーマとしました。

何かを急にやり遂げられる人はいません。
ピカソですら、ただただ、ひたすら数をこなして
積み重ねていったからピカソになったのです。

絵だけではないのはもちろんです。
世の中が政治の不安定さやグローバル化で息苦しいですが、
どんな時も、目の前の事を丁寧にやって積み重ねていけば
何かあったときでも、自分がその時点での最高の状態でいられるはずです。

もちろん
最悪の事は考えておいた方が良いでしょう。
「突然事故にあったら……」
「家族が病に倒れたら……」(去年、10月から12月は我が家でも)
「大地震が来たら……」
「巨大な台風が来たら……」
「大雪に見舞われたら……」
原発が本当に再稼働するとしたら、近くの人はイヤでも
「事故が起きたら……」
と考えざるをえないでしょう。

そして避難経路の確認や水や食料の備蓄
家族の連絡方法、
手元のお金はすぐ引き出せるのか(これが意外に重要ですね)
そういった事はしっかり備えておいて、

でも備えたら、普段は忘れ
あとは楽しく、やるべき事やりたい事をひとつひとつ丁寧にやっていく。

忘れるなら、最初から考えなくても良いのでは、
という人もいるかもしれませんが、
備えておけばイザという時の機動力が違いますから
サバイバル力が1万倍くらい違うでしょう。

「どうせいつか死ぬから」という人もいるようですが、
備えれば生き残れる確率がずっと高くなるのですから
自分を粗末にしてはいけません。

というわけで、
しっかり備えて、あとは楽しく、
夢中になって目の前の仕事や課題を「丁寧に」
積み重ねていく。

もちろん、
何も起きないのが一番ですが。
それは祈るしかないというか、祈っても無駄なので、
備えて気にしないのが一番です。

2015年がみなさまに取って、幸多き一年であることを
祈念してやみません。

見て描いて、心でデッサンする

今年は12月に入ったとたんいきなり寒くなりました。
冬は、葉が落ちて木の枝ぶりや姿を描くにはちょうど良いですし、
去年は装備を整えてノスリなど鳥も見に行きましたが、
今年はのっけからとにかく寒くて、野外スケッチに行く気力が湧きません。

で、今年の冬は少し趣向を変えて、時々
「仕組みを知って、想像でデッサンする」練習をしています。

特に人間を見ないで描きたいので、
大学時代に習った美術解剖学を、
改めてやっています。

美術大学では、専攻によっては、見ないで描く事は推奨されませんが、
しかし、「想像で描ける」という事は獲得しておくべき
能力だと、近頃強く思うようになりました。

人間の骨格や筋肉の着き方はとても複雑です。
しかし、最近は、コンセプチュアルアートやアニメ
マンガなどの分野で「想像で描ける』ことが要求されるので、
美術解剖学が改めて注目されていて、
良い本が次々と出版されるようになりました。

私は以下の二冊を中心にボチボチやっています。

このウィンスロウ版は昨年の4月に出版され、評判が良いのか
一年で既に5刷です。
非常に詳細ですし、大学の授業で使える内容で、
超お薦めです。
ただ、独学でやる人には特に第一章がハードルが高いかもしれません。

もう一冊。

このヴァレリー版が出版されたのは四半世紀以上前。
私は以前からこちらを持っていて、
しかし正直言うと難しくて、全く使いこなせなかった。
が、今回、上のウィンスロウ版の不足を補ってあまりあり、
この二冊があって、人体の美術解剖学はほぼ網羅されたと言えるでしょう。

ダヴィンチもミケランジェロも膨大な「想像によるデッサン」を残しています。
もちろん、同じくらい沢山の「見て描いたデッサン」もあるわけで、
見て描く事と、想像して描く事は、創作の両輪です。

葛飾北斎も膨大な想像による「北斎漫画」を残しています。
直しの聞かない墨でちょいちょいと描いてしまう能力は
ミケランジェロもビックリでしょう。

実は今回、もう一冊参考にしているのが
マンガの神様、手塚治虫の「マンガの描き方」という本です。
見ないで描く、と言ったら北斎だけでなくマンガですから、
きっとヒントがあるだろう、と思ったわけです。

そして、この中で、手塚治虫も、写真なんか見て描くよりも、
本物のデッサン(見て描く事)と心のデッサン(想像で描く事)
の両方を薦めています。

以前、安野光雅の「絵の教室」という本にも同じような事が書いてありました。

この中で、安野さんの知り合いのイラストレーターの方が
爬虫類が好きで、
見ないでそのウロコが身体の流れに添ってカーヴしている様子を描き分けて
感心したという記述があります。

今は普通に写真を使って絵を描く事が行われています。
しかし、仕組みを知れば、想像で描けるわけです。
仕組みを知らずに、写真に写った部分だけ写真の通り描く事より
想像でも仕組みが分かって描くことの方が説得力がある絵が描けそうです。

最初にその事に思い至ったのが、鳥を描こうと思った時です。
なぜ鳥は飛ぶのか、どうやって飛ぶのか、
それを知るためには、どうしても骨格を知る必要がありました。

鳥の博物館へ行って、何体もの鳥の骨格をデッサンしているうちに
見ないで鳥は描けるようになってきました。
最初はまったく分からなかった羽の畳まれ方や
羽ばたくときの羽の動き、
そういったものが少ずつ見えて来るのです。

もし、鳥を描いていなかったら、
人間の美術解剖学にこれほどすんなりと馴染めたかどうかわかりません。

今日はスズメとムクドリの違いを描いてみました。
20141223d

人間の骨格は頭から肩までのつながりを描いてみました。
人間は首と肩の骨格が複雑に絡み、そして実に巧みに出来ています。
第七頸椎の下から一番上の肋骨が出ていて、
その上に肩甲骨からの骨がまたいで鎖骨につながっています。
二次元に描くのはなかなか難しいですが、
3次元を頭で想像しながら描いていました。

こうやって、想像力を養いつつ、
実物を見て描いてく事も怠りなくやらなければなりません。
20141223_2
電車の中で描いたものです。
電車の中は意外に揺れるのですね。

都美館の作品撤去要請と宙に浮く「石」

雪の影響もあったのですが、少し難儀な作業に取りかかっていて、
スケッチに行くことが出来ず、新しい画像があげられません。

3月の半ばくらいまでこんな状態が続くかもしれません。

記事も気になる事はいろいろあるけど、
アトリエ日記としては気になるのが、
都美館の作品撤去要請のニュースでした。

都美術館作品撤去要請 撤回求め署名活動

私もこの署名には署名しましたが、
同時にいろんな視点からも考えてみたいと思っています。

もちろん、ここでは第一義的に「表現の自由」が問われるわけです。
今回政治的である事が忌諱されているわけですが、
そもそも、政治的でない事が世の中にどれほどあるのか、
とは思うわけです。

個人の恋愛を扱うだけなら、政治的でないかもしれませんが、
個人と言えども社会と接点を持っている以上
日々、政治的に思考しなくても、
政治的存在である事はむしろ当然だと思えます。

税を払う行為も、学校に行く行為も、
国家というシステムの中で運用されており、
その国家というシステムの運用方法を決めるのが
政治なのですから。

私たち日本人は、ことさらに政治に関わる事を避けるように
教育されますが、実はこれ自体が、実に政治的な側面を持ちます。

つまり政治に関わらないでいてくれたら楽だという
政治や行政の「政治的な」思惑以外何ものでもないからです。

その事は端に置いておいても、
自分の作品を社会に発表する時点で、
ある程度の社会性は内包していて、
社会性には当然政治性も含まれているから、
作品を世に問うた時点で多少の「政治性」は
作者が意図しなくても、
見る人によっては生まれます。

今回は、美術館側が、見る側の気持ちを
「政治性」と言う言葉で忖度した結果が
撤去要請だったのだろうと思います。
だから、私は、署名をしたのですが……。

「……が。」と言うのには訳があります。
もちろん撤去要請撤回に署名したのは、政権が変わるたびに
忖度されて「政治性」が問題になる事が、
「表現の自由」からはあり得ないからですが、
しかし、撤去要請を受けた作品自体を写真で見た時、
その「表現」に諸手を上げて賛成、とは思えなかったからです。

本当は実物を見ないで論評は避けたいのですが、
どうやら、灰色のカマクラみたいな半円形のオブジェに
ペタペタと新聞の切り抜きや「反戦」と言ったような
直裁な言葉を書いた紙を貼っているようなのです。
立体コラージュとでもいうのでしょうか。

確かに今急激に政治が悪化していて、
思わず日頃の思いを貼ってしまったであろう事は想像に難くないし、
コラージュ自体は昔からある表現方法ではあります。

しかし、ネット見ただけでもキラ星のごとくの表現が溢れているこの時代に
あまりひねりも感じられず、格段に美しいとも思われない方法が
はたしてどの程度見る人の心を動かしたでしょうか。

実は反戦やら反核では、
U.G.サトーさんという作家さんが
面白いアイデアでポスターなどを作っています。

作品解説は ↓ こちらから読めます。
多面体U.G.サトー、笑いのDNA

そして今日、偶然に、
カナダのパフォーマー マイケル・グラブ (Michael Grab) の
「重力接着 (Gravity Glue)」
Gravity Glue
という作品を目にしました。

こちらからは動画が見られます。
【重力接着】「にわかには信じられん」はこのためにある言葉。石が奇跡のバランスで、あり得ない風景を作り出している

石を積み上げて行くだけなのに、すごく不思議な力を持っています。
重力とバランスだけでこういうことができるのですね。

一方、石ではなくて小枝や羽でバランスをとる日本女性も居ます。
Miyoko Shida Rigolo – an incredible performance

どちらもパフォーマンスとして素晴らしいけれど、
マイケル・グラブさんのパフォーマンスは
重い石が微妙なバランスで宙に浮いているかのごとくに見える点で
より見るものに異界を覗かせてくれるようです。

そして、重力と言うどこにでもあるものの力を
引き出してくれたような感じがするのと同時に、
万物とか森羅万象とかそういったものへの圧倒的な信頼感を感じました。

人間は飛行機を作ったり、宇宙探検に行ったり、いつもその重力から
解き放たれようとして来たけれど、
実はその重力自体がこれほどの神秘であったとは。

そういう事を思うと同時に、
マイケルさんの作った石のあまりの不思議な美しさに
戦争とか競争といったような事が
とても些末な事のように見えてきます。

もしかすると、人々から戦意を失わせるこの「表現」こそが
一番の「反戦」かもしれない、
と思うのです。

是非一度、この人のワークショップに参加したいものです。

関連記事
ルーブル美術館の秘密

↓ 現代アートって何?という人にお薦め。

↓ 美術館の役割は?という人にお薦め(子ども向けの初歩的な事が書いてありますが、学芸員の仕事など知らない人には案内になります)

写真を使って絵を描くことについて考える

ミケランジェロと言えば、ルネッサンスの巨匠だし、
まあ、歴史上、最も高名な絵描きであり彫刻家。

しかし、彼の女性を描いたり彫ったりした作品を見て
なんだか妙に筋肉隆々だな、って思いませんか?

ミケランジェロは、実際に死体を解剖する所に立ち会って
いわゆる美術解剖学的に人体を描くことを会得した人です。

ところが、男性の死体を解剖した所しか見たことなくて、
男性の身体に乳房をつけたから、ああいう筋骨隆々な女性の身体が出現した
と言われています。

例えば、「エリトリアの巫女」という壁画がシスティーナ礼拝堂にあります。
このページの5月をクリックすると大きく見られます。

システィーナ礼拝堂は、法皇を選ぶ選挙コンクラーベが行われる所です。
バーチャル・システィーナチャペル
( ↑ 360度で壁画と天井画を見られます。)

どうですか、「エリトリアの巫女」は、
顔は本当にきれいなのに、身体は男性そのもの。
胸は少しふっくらしているけど。

一方、ラファエロは本当にふくよかな女性像を描きます。
ラファエロの聖母マリア(グーグル検索)

実は、ラファエロは色男で、とても女性にもてて、
激しい情事で亡くなった、と言われるほどです。
彼は女性の身体を身を以て知っていたわけです。

じゃ、ミケランジェロは?
ミケランジェロはセクリュアル・マイノリティーだった、という説もあるようですが、
しかし、熱烈な愛の詩も書いているので、よく分かりません。

が、少なくとも、女性の身体を解剖する所は絶対に見てないはずです。
もちろんミケランジェロは、
自分の見た物を再構築し、想像でたくさんの人物象を生み出しています。
デッサンもたくさん残っています。
それは、彼の頭の中で、男性の骨格の仕組みがしっかり把握されていたからです。

それでも、顔は、誰でも外から見れば分かるわけで、
神々しいまでの美しい顔の下に筋骨隆々の身体がある、
というちぐはぐなことが起きたと思われます。

なぜ、この話を始めたかというと、
藝大生が描いたと言う「昆虫交尾図鑑」が、どうやら他者の写真をトレースしたものらしい、
というまとめを見たからです。
基本的にこれは著作権の問題です。
出版社や編集者、また学校の先生は気がつかなかったのかな、
と思うと、学生さんだけに、ちょっと残念です。

美大の学生だからと言って、
社会的な常識から外れると、厳しい対応が待っています。
美術大学では知的財産の概要の講座などないのでしょうか。
私が美大に通っていた頃はもちろんなかったですが、
時代は大きく変わりました。

しかし、もう一つ別の問題があります。
著作権上は、自分が撮った写真なら、トレースしても構わないのですし、
最近は、割合と写真を見て描く、ということがふつうに行われているようです。

しかし、実際に見て描かない、自分で写真を撮ったとしても
写真だけ見て描く、トレースする、ということには絵を描く意味があるのかな、
と、私は思うのです。

絵画の世界に、カメラが取り入れられたのは、
フェルメールの時代です。
フェルメールは、カメラの前身、カメラオブスキュアを
制作の補助に使ったと伝えられています。
しかし、フェルメールは、モデルを使って描いてます。

ミケランジェロの話に戻すと、
彼ほどの画家が、想像で女性を描けないはずがありません。
男性の身体の方が美しいと思っていた、という説もあるようです。

しかし、大胆に推論しちゃうと、
見てないものは描くべきではない、
と思っていたということは、ないでしょうか。

さて、問題の学生さんのインタビューを読むと、
昆虫には詳しかったようです。
だとしたら、なおさら、残念です。

実際に実物を見ながら描くことを続けていくと、
少しずつ、仕組みが分かってきて、
見ない部分でも描けるようになってきます。

実は、どれほどカメラの性能が進んでも、
写真は、立体的な被写体のすべてにピントが合う、
ということは難しいです。

その点、絵だと、細かい所は顕微鏡で見たり、
かくれている見えない部分を確認しながら
すべてにピントを合わせてに描くことができます。

こういう、細密なサイエンスイラストレーターの仕事は
博物学などの伝統が長い欧米では一定の評価がされています。

また、今は研究者も器用な人は絵を描くし、
知識が深い分、イラストレーター顔負けの絵を描く人もいます。

今後はサイエンスイラストレーターは、
絵を描くだけではなく、一定の専門性も必要で、
大学院行って修士を取るくらいでないと、専門分野は担えない時代かもしれません。

さて、お前はどうなのか、と言われると、
私は個々の生物を精密に描くことより
「生態系の繋がり」を描いて行きたいと思っています。
生き物同士の関係性。
人間もそうだけど生き物は、
一つの種だけで生きることは、もちろん出来ない。
常に、食べる食べられる、の関係を中心に、
関係性を保ちながら生きています。

このブログでも、少しずつ、試みています。

これは、観察と自分で撮った写真から作った鳥とヒマワリの種の絵。

アルシュ紙に水彩、ガッシュ、色鉛筆

アルシュ紙に水彩、ガッシュ、色鉛筆

田植えの季節のカルガモ。カモ類で唯一一年中いるカモ。
20130702

こういった関係性を描くには
個々の生き物が描けなければならないし、
「関係性」の実感がなければ描けません。
それは、実際に、見て触れなければ、分からないものです。

細密画を描く時も一緒でしょう。
何より、実感がなければ、絵にはならないものです。
写真は補助にはなるけど、
実感そのものはスケッチブックと鉛筆がなければ
捉えられないのが、絵描きさんだと思います。

写真で捉えられるなら、
それはプロの写真家になります。

そのプロが撮った実感のある写真をなぞっても
実感のある絵になるはずもありません。

私は鳥の仕組みが分かるまでに2年以上かかっています。
観察会に参加し、動画や写真にとり、
博物館に行って骨格や剥製をデッサンし、
毎日、図鑑見て、出かける時も鳥の声に耳を澄まし、
ようやく分かってきた所。
まだまだです。

人生は長い。(けど短い)若いうちは本当に基礎が重要。
本を出す前もずっと描いていたようですから、
厭わず出かけて実物を描いて、自分のものにしてほしい。
くだんの学生さんにはそう言いたいと思います。

↓ 来年のカレンダーをお探しの方、猫好きの方へお薦めカレンダー