カテゴリー別アーカイブ: アトリエ日記

スケッチのコツ、差異の目と統合の手 / ハザ掛けの図

昔懐かしい、
稲をハザ掛けにして干している様子です。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

このハザ掛けは横に20メートルくらいはあるでしょうか。
それをやはり20メートルくらい離れたところから描いています。

どれほどカメラの技術が進んでも、
こういう構図は絵の方が遥かに得意です。

むしろ絵が得意、というよりは、人間の目の方が
カメラのレンズより得意、という事でしょうか。

絵の補助にと思って始めたカメラも
一万枚くらい撮りました。
少しカメラに慣れて来た、という感じでしょうか。
デジタルカメラはいくら撮っても捨てられるので
とにかく撮ります。
だからうまくならない,という見方もあるようです。
銀塩写真のように結果が出るまで分からないうえに、
現像や焼き増しにお金がかかれば緊張して
必死に考えて撮るから上達するというのもわかります。

でも私は、デジタルカメラに感謝です。
最近は,動くものは動画に撮って家で繰り返し見る
という事もするようになりました。

昔の人は,時間もあったし目も良かったのだなあ、
と改めて思うこの頃。
伊藤若仲さんにも歌川広重さんにも酒井抱一さんにも
リスペクト、深い深い尊敬の念を抱きます。

人間の目とカメラのレンズの話ですが、
上のような構図の場合,横を全部入れようと思うと、
カメラは広角にならざるをえず,どうしてもゆがみが出ます。
35ミリくらいで撮ろうとすると,何枚かに分けないと難しいです。
その点、人間の目で見て描く絵は,無理なく全体を描くことができます。

よくデッサンの本を見ると、
片目をつぶって鉛筆など長いもので測る,という場面が出てきますが、
私はほとんどモノを使って測る事はありません。
何故なら,人間の目は「差異」にものすごく敏感で
目の前に本物があるなら、下手に測るより
自分の目で繰り返し見た方が,違いが分かります。

銀行の事務員が印章の確認に紙をパタパタさせて
残像で確認するのも、人間の目が私達が思う以上に
差異に敏感である事の証左だと思います。

ただちょっとしたコツはあります。
絵から離れて、対象と距離を置かずに見比べられる状態にする事です。
極端にいえば、対象を見てから背中においた絵を見くらべても
小さな差異は見つけにくいです。

印章の紙をパタパタするように、
対象と絵を見比べる時にあまり目を動かさなくて
いい状態で見比べる事が肝心です。

さて、鉛筆で測る時にはたいがい片目で測ります。
当然の事ながら視点もずれます。
正確に測ったつもりでも狂いが出るのは、
片目で見るからですね。
片目になる度に対象物は、私の脳の中で移動します。

目が差異に強いのは形だけではありません。
色もそうです。
人間は2万色以上の色の差異を見分けられると言います。
最初に絵の具を買うとだいたい12色の基本色です。
もちろん、3原色(青赤黄)が有れば絵は描けるのですが、
混色すれば濁ります。
(今は子供用の濁らない絵の具,というのもあるようですが)
濁るけれども、私達は少しずつ色が変化して行く事が認識出来ます。
わずかな混色による差異も、人間の目はわかるのですね。

さて、その 「目の」見たものを脳が処理して
手が画面に色や形を再現して行きます。

この時に気をつけなければならないことがあります。
目と違って,手というのは差異より統合する力が
働く器官のようなのです。

どういう事かというと、
繰り返しとか左右対称など統合された形を手は好むのです。
見た通りに描いているはずなのに、
手は目が認識した差異をなかなか再現してくれません。
ついつい繰り返しや同じような形になって行くのです。

人間が作るものには繰り返しや左右対称が多いのは、
建築物を見ればわかる事です。
一方,人間も含めて自然のものには同じ繰り返しや
完璧な左右対称はあり得ません。
直線や円、球体も人間世界にしかないものです。

養老孟司さんの「唯脳論 」で
人間の頭の中には、こういう自然界にはない形態が
プログラムされているのではないか、
という一説を読んだことがあります。

それは確かめようもない説ですが、確かに
目は明らかに物の形や差異を見つけているのに
脳というフィルターを通すと、手が再現するときには、
統合の方向に向かうのかもしれません。

とすると、どうすれば良いのか。
自分の描いた絵を見て,改めてその絵の中に差異を見つけ出し,
修正する作業が必要になります。
「絵がうまい」というのはこの作業が出来るかどうか、
なのだと思います。

そしてこの時点までの認識や作業手順は
訓練すれば手にすることができるスキルのような気がします。

ただ、形や色がそのまま再現されたからと言って
対象の持つ魂や命の輝きが写し出せるとは限らないのが
絵の不思議なところです。
多分写真もそうですね。

自分が描いているときを思い出すと、
見たものを脳のフィルターを通る時になにか
化学作用が起きて、手にそれが伝わっていく、
そんなことが起きているのかもしれません。
もうその時には、形の再現には手がこだわっていないことが多いです。

さて,今は田舎でも珍しくなったハザ掛けの様子は、
今週末くらいまで東京港野鳥公園の自然生態園で見られます。
運が良ければ、エゾビタキなどの旅鳥も見られるかもしれません。

   

小さな虫博士や鳥博士を応援する/小さなスイカと虫の図

週末は、稲刈りでした。

私達大人はもっぱら子どもたちのサポート。
子どもたちが刈った稲を、去年の稲藁を使って束ねます。
稲を刈る作業は鎌の使い方が分かれば
子どもたちでも問題無いのですが、
束ねる作業はかなり力がいるので、なかなか大変。

さて、刈る前の田んぼや周りの草むらは昆虫の宝庫。
子どもたちは、カマキリやイナゴを上手に捕まえて
虫かごに集めます。
これは帰る時に放します。虫のキャッチアンドリリースですね。

で、私はちゃっかり、子どもたちの集めて来た
虫さんたちを、スケッチさせてもらいます。

ところが、描いていた私の絵を覗き込んで、
「下手だね」という男の子がいるのです。
あれれ〜と思っていると、
「足にはもっととげがあるよ」とか
「目はもっと横だよ」と教えてくれるのです。

話を聞くと、
小学校4年生で一年生のときから区の絵のコンクールに
虫の絵を出して、銅賞、銀賞、そして金賞、と総なめにして来たらしいのです。

実は、子どもの中には、
こういう「虫博士」や「鳥博士」がいて
よく知っているだけではなく、絵も上手な子どもが時々いるのです。

鳥博物館でも、
「ワライカワセミはオーストラリアにしかいないよ」などと
教えてくれる男の子がいました。
その子どもは、見ないで、
「これはユリカモメ。こっちがセグロカモメ」
と違いも分かるように描いてくれました。

こういう子どもたちは、一様に図鑑が好きで、よく名前を知っていて、
毎日見ているから、絵も描けるんですね。

そういう子どもたちに会う度に、
好きなことをこのまま続けられると良いな、
と思うのです。

解剖学者の養老孟司さんが、小さい頃は昆虫少年だったと言っていますし、
昆虫や鳥の観察は、科学者の第一歩でしょう。

このあと、中学に行ったり、大学受験など
様々な人生の関所が待ち構えていて、
「末は博士か大臣か」何て言われた子どもも
普通の大人になるのかもしれません。
(最も大臣なんて、今はありがたくもないですけどね。)

ま、人の人生はわかりません。
いろんなノウハウ本が出ていて、
人生は思いのままにコントロール出来るかのような風潮ですが、
実際は、自分が選べることは、そう沢山ではありません。

それでも、今一生懸命、鳥の名前を覚えたり、昆虫の絵を描いている子どもたちを
心から褒めて応援したいと思います。

たくさんの「自慢できること」は子どもたちを元気にするし、
強くもするでしょう。

実は、小さいときから、目上に褒められたこと、
というのがほとんど無い私です。
大学の進路を決める時には、
「色彩の才能がないから絵には行くな」とまで、高校の絵の先生に
言われたくらいです。

実はこの先生、私が美大を出てから、
手紙をよこし、「あのときは悪かった」と謝って来たのですが、
なんて残酷なのか、と怒り心頭になった事もあります。

私の個人的な経験だけではなく、
社会全体が、いいところを見るより、
負の部分を直すことに重きが置かれ過ぎていますね。

「子どもは未来」。
この当たり前なことがこの社会に根付くのはいつでしょうか。

子どもたちとの交流では、
絵を描いているとすぐお友達になります。
一期一会でたいしたことは出来ないけれど、
一緒に楽しめればいいのかな、と思っています。

紙に色鉛筆、水彩、グワッシュ

紙に色鉛筆、水彩、背景はグワッシュ

さて、今日の一枚は、小さな胴回りの直径が8センチくらいのスイカに
ナナホシテントウとショウリョウバッタを配してみました。

そう言えばテントウムシは子どもたちにすごい人気です。
カマキリも大きくて捕まえやすいこともあるのかもしれませんが、
大人気でしたね。

カマキリは以前、こちらでアップしています。

   

みずほの国の秋

みなさん、お元気ですか〜。

私は先週末くらいから夏の疲れが出たみたいで
身体の節々が痛くだるく、更新が空いてしまいました。

実は、それだけではなく、
生活のリズムも朝型に変えていたのです。

ホームページを作り、特にブログを始めてから、
毎晩夜が遅くなっていました。
ネットをやっているといくらでも夜更かし出来ちゃいます。

もともと睡眠時間はあまり長くない方なのですが、しかし、
夜更かしが続くと、朝が遅くなり、一日があっという間に終わってしまいます。

なんとかしたいと思いつつ、夏の間は、
暑いだけで生きているのがやっとという状態でした。

このところ涼しくもなってきたので、夜の熟睡度も上がり、
6時前から作業が出来るようになってきました。

ようやく生活が朝型リズムにのって来ました。

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さて、4月に始まった田んぼ作りも、いよいよ稲刈りです。

刈り取り寸前の田んぼの様子を見てきました。
稲穂は落ちんばかりに実っていました。

まさにみずほの国の秋ですね。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

書きたいことはいろいろあるけれど、
せっかく稲のスケッチをアップしたので、
ゆっくり見て行って下さいね。

ではでは。

手作りも絶滅危惧種?

枕カバーがヨレヨレなので、
新しいのを作ろうと思って、お気に入りの布屋さんのHPを見たら、
7月に閉店していました。

そして、なんと、渋谷の駅前の老舗の生地屋マルナンも明日16日で閉店とか。
東京新聞にも取り上げられていましたが、
あそこは、演劇の衣装やスタイリストなどプロも使っていたので、
これから本当に困るでしょうね。

枕カバーは布を封筒状に縫うだけだし、
頻繁に洗うものなので、
いつも自分の好きな模様の安い生地を、
まとめて買って縫って使っていました。

以前は、スカートもほとんど自分で縫っていました。
筒状に縫って、ウェストにゴムを通すだけ。
裁縫とも呼べないものです。
市販には合うサイズがないので(日本人は痩せ過ぎ)
また、クィーンサイズやマダム向けのものは
デザインがいま一つのものが多く、
好みの布で作ったものでした。

fabric001

「手作り」が危ないな、と最近思っています。

布製品だけではなく、スーパーに行くたびに、
野菜や肉などの生鮮のコーナーが
レトルトや加工済み素材に、押されて
小さくなって行きます。

女性も働いているから当然なのかもしれません。
ただこのままで行くと、
大企業ビジネスだけの社会になって行くな、と感じています。

それでなにか問題でも?
と思う人も少なくないでしょう。

大企業ビジネスで稼いだお金で、
大企業ビジネスが建てたマンションに住み、
大企業ビジネスで作られたデパ地下のお惣菜を勝って食べ、
大企業ビジネスで作られた洋服を着て、
大企業ビジネスで作られたテレビを見て笑う。

それの何がイケナイの?
と思う人も沢山いるでしょう。

ただ生きながらえて行く分にはそれで良いのかもしれません。
もしかすると、それが21世紀にライフスタイルなのかもしれません。

でも、なにか、釈然としないのです。
個人が、丁寧に生活を送ることが難しくなっています。

そんなの単なるノスタルジー?

・・・かもしれません。

極端に言うと、今の生活は、パソコンのキーが打てて
スマホでスクロール出来れば、
あとはお金さえ払えば、それで事足ります。

当たり前じゃない。
サービス残業をしてくたくたになって帰るのに
何言っているの?

便利、バンザイ。

・・・・・

社会が、企業の提供するサービスにあまりに依存して
 企業社会化が進むと、
求められるのは効率だけになるということです。
企業は、利益を上げるために極限まで効率化を図ります。

気がつくと、私達人間にも効率だけを求める社会になっているかもしれません。
労働者としては極限まで効率化を求められ、
仕事以外では、私達に求められるのは消費者としての行動だけ。

そして、採算が合わないものはすぐ撤退します。
大きなスーパーがやって来て、小さな小売りがつぶれ、
採算が合わなくなるとスーパーが撤退したあとには
お店がないので、ネットで買うしかない、
みたいなことになって行きます。

それが21世紀社会なのでしょうか。
それがグローバル社会なのでしょうか。

しかし、手を使わなくなると人間は、
毛のない猿とさして変わらなくなって行くような気がします。

人間を人間ならしめたのは、
二足歩行によって前足が手として使えるようになったからです。
手は身体の外に出た脳、ともいわれています。

文明が進みすぎて、
人間自身が退化する方向に文明が向かい始めているのかもしれません。

過ぎたるは及ばざるがごとし。

この流れは止められないとしても、
丁寧に日々を送ることはやはりお金とは違う豊かさを
私達にもたらしてくれるはずです。

実るほど、頭を垂れる稲穂かな

実りの秋です。

いよいよ、稲穂もたわわに実ってきました。
今月の終わりには稲刈りです。

まさに、
「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」
の図です。

ああ、最近の偉い人たちに聞かせたい言葉ですね。

紙に顔料ボールペン

紙に顔料ボールペン

稲の下のキノコはカラカサタケ、
バッタはショウリョウバッタです。
畑をポーンポーンと飛んでいました。

ではでは。

宮崎駿監督引退記念、トトロの森の絵

今はすっかり、世界的観光名所になった
屋久島のトトロの森。

もののけ姫の製作の時に、
宮崎駿監督は
屋久島の森と白神山にロケハンに行って
スケッチしたと聞いています。

屋久島では、↓ここがその場所です。
20130308

宮崎監督が来る前は
「苔の森」と呼ばれていたところです。

今はこの場所に行くと、
森ガールや山ガールだけではなく、
モデルさんとカメラマンとか、
キャスターとかで混みまくっていますが、
私がこれを描いた時は、
一日描いていて、2、3人の登山者に会うくらいでした。

他にも屋久島のデッサンはいくつかあるので、
こちらからご覧下さい。

今は、アニメや漫画に多くの才能のある人材が集まっています。
アニメや漫画で言う時の「デッサン力」というのは
「いかに本物らしく見えるのか」ということが問われます。

それも大切なことでしょう。
でも、形だけの再現性ではないのがデッサンの魅力です。
「上手い」ことは重要ですが、それは、十分条件ですが、
デッサンの必要条件ではない、と思っています。

以下はホームページのデッサンのページの文章です。

デッサンは快楽

デッサンは、下書きや本画のための練習と捉えられがちです。

しかしある時、気がついたのです。
デッサンで対象と向かい合っている時、不思議な恍惚感が私を満たす事に。

紙に向かっている時、一期一会のそのひとときの世界に私が入り込み自我を離れ、
私はほんの少しだけ忘我の恍惚感を味わうのです。

多分それが私にデッサンに夢中にさせます。私にとってデッサンは快楽なのです。

見る人にも気持ち良くなってもらえたら、絵描き冥利ですね。

ではでは。

関連の記事。
富士山の世界遺産登録の問題点(改題)
シャクナゲと自然遺産の屋久島

スケッチ わたのはなしべひらく

世の中,変なことばかりですが、
どれほどおかしな世の中でも、
キチンと見据えて行かなければならなのと同時に、
しっかり自分の時間や空間は確保しておきたいものです。

自然に親しむ,というのはそのためにとてもいい方法のひとつです。
幸いなことに、季節が移ると自然の様相も
様々に変化して,尽きること無く楽しめます。

二度と同じ自然,二度と同じ夏,二度と同じ人生のひとコマはないのです。

今日は,3日の記事「わたのはなしべひらく」のスケッチです。

綿の花、水彩・色鉛筆

綿の花、水彩・色鉛筆

まだふわふわの綿ははじけていませんが、
花が落ちると、シソの葉のようなひらひらの咢の中で、
まず白い実が生まれ,それが緑に大きくなって行きます。
この絵では、左の一番下に白い実,その上に少し大きな緑の実が見えます。

花の下では、ハナムグリがエッチラオッチラ花をめがけて登って行きます。
このあとナハムグリは,花の中に潜ってしまいました。

いつはじけてコットンボールになるのでしょう。
その時見られるかな?
今から楽しみです。