カテゴリー別アーカイブ: シダ、野草、花の絵

習慣は断続的にでも続けるとゆっくり前に進む

タンポポの原

タンポポの原

人間というのは習慣の動物、という気がします。

例えば英語の勉強を慣れにしてしまえば、上達します。
しかし、一方で、慣れが習慣になっても、
一旦やめると、やらないことに慣れてしまうのも人間です。
せっかく上達した英語、どんどん忘れてしまいます。

しかし、ハタと気づきそこで諦めず、再開し断続的にでも続けていくと、
不思議とゆるいスロープを歩くように上達して行きます。

時々習慣を呼び覚ましてやると、記憶が甦るのですね。

という訳で、ブログを休んでいると、書かないことに慣れます。
2月の半ばから更新がガクンと減って、
このままやめても、誰も文句言わない状態ですが、
また定期的に更新して行きたいと思います。

意外ですが、更新しない間も、一定数のご来場があって、

草むしり コツ、 庭の草むしり、日々のスケッチ
画の六法、 ムクドリ スケッチ、トトロの森、
ポールスミザー 雑草, 宙に浮く石、
イタリアの円形野外劇場、タガメ女チェック、
枇杷の絵、イラスト 田植え、 ヴェローナ野外劇場

といった検索単語で来て頂いているようです。

今日の絵は、昨年の4月の中旬のもの。
こんなタンポポの原も、
そろそろ色濃くなって来ているでしょう。

今年は五月雨連休ですが、一年でいちばんいい季節。
みなさまも緑を楽しんで下さい。

——————-
個展をやります。
<7月16日から21日>
テーマは「KIDS & NATURE」です。
原宿 積雲画廊
なんと、15年ぶりの個展です。
ドキドキですが、
頑張るので、応援して下さい。

アートな一期一会 / 紅葉とドングリの図

今日の一枚

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク


赤や黄色に色づいた葉っぱが
ハラハラと舞う季節です。

これから一ヶ月、冬至まで昼間の時間がドンドン短くなります。
4時には暗くなりますから、
ちょっと時間を損したような気がするくらいです。

しかし、
インターネットのなかった時代は、
ほんとうに「秋の夜長」でした。

ちょっとしたことが簡単に調べられるようになった反面、
気をつけないとSNSで過ごして、
長い夜が味わえなくなっているのかもしれません。

一期一会の感動

さて、時間ではなくお金の話です。
今から考えると不思議なくらい
お金は汚いもの
だから売り絵は描いちゃいけない、
みたいな風潮が長らく美術界にあったように思います。

美術界だけではなく、
「お金のために働いてるんじゃない」
という一種の気概が、日本をGDP世界一に押し上げたのは確かです。

しかし、皮肉なことに、それがそのうちサービス残業に化け、
過労死なんて言葉まで生む状態に繋がって行きます。

そしてむしろ、311以降には
私たちが思っている以上に、日本社会が拝金主義になっていたことを
思い知らされます。

まさに「命か金か」みたいな状況が出現したわけですが、
今日は、話をアートに限りたいと思います。

資本主義社会である以上、
すべてのものと交換可能なのが
今のところ貨幣しかないので、
人の能力やアートの価値も「お金」で換算される、評価される、
というのが基本です。

それは必然的に「売れる」ということを意味します。
「売れる」ということは、もちろん凄いことです。

というのはやはり、
人は自腹を切ったものに対してはそれなりのコストパフォーマンス
を要求しますから、対価に対しては評価が厳しくなります。

ですから、売れるものはある程度以上の評価がある、
と考えていいと思います。

しかし一方で、
資本主義とは、資本側が非常に恣意的に
その「売れる」状況を作れることも意味します。

言わばマーケティングです。

特に、テレビと徹底したマーケティングに免疫のない日本社会は、
資本の雨霰と降り注ぐ情報の送り手側が、
かなり恣意的に、その「売れる」状況を作ることができます。

アートの場合、
もちろん基本はその作家の作品の評価です。
作品が一定水準以上でなければ、
売りようがありません。

しかし、最近はやたらと
「物語り」を流布することで、
作品の評価とは別の意味合いを、その作家の存在に持たせることもあるようです。

例えば,日本画家松井冬子さんの場合、
ご本人の作品を語る時になぜか、
「美しすぎる日本画家」と言った形容詞がつけられます。
そしてその絶世の美女が、何浪もして芸大に入り、
女性として博士号を初めて取った、
となれば、話題につきません。

誰でも、美人は好きです。(笑)
そして、松井さんは本当に美人。
でも、その事と、松井さんの作品の評価は関係ありません。
松井さんの絵が売れるのは作品がいいからです。
でも、展覧会場に沢山人が行くのは
もしかしたらマーケティングの成果かもしれません。

実は私たちは、作品と作者を結びつけがちですが、
これはあまり作品鑑賞にはいい影響を与えるとは思えないのです。

もちろん、作者の人生があって作品があるわけです。
それでも、
まず純粋に作品に接することを習慣づけたいです。

時代背景など知っておくと理解が深まる、
ということもあります。
それでも、
なるべく初めてのデートをするような気持ちで
作品と接してみてほしいと思います。

5年ほど前に、夫とフィレンツェに行ったことがあります。
ルネッサンスへの道を開いたとされるマサッチオの壁画を見に
教会へ行ったところ、
その肝心なマサッチオの絵を見ずに、夫はひたすら天井を見ているのです。

どうしたのか訊ねたら、
「凄いね〜、この教会、外から見ると3階建てなのに、中は五階建てなんだね」
と言うわけです。

その丸天井には、壁画がが描かれていたのですが、
柱や破風が描き込まれていたので、
さらに上の階がある、と夫は思ってしまったのです。

簡単に言えば「騙された」のですが、
しかし、その時の夫の感動は本物のわけです。

その後、天井画で有名な教会へ行っても
夫はもう、それが絵だと知っていますから、
絵にしか見えません。

一期一会。
その時かぎりの感動。
絵やアートだけでなく、
音楽や文学にもあるでしょう。

情報過多の時代、
あえて物語りに耳を傾けない方が
心の目で作品を見ることができ、
いい出会いがあるかもしれません。

ネットの無かった時代、
長い夜に読みふけった本が
一生の友になるように。

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自分のために歌う / わた がはじけた!の図

今日の一枚

スケッチブックに色鉛筆と水彩

スケッチブックに色鉛筆と水彩


以前の記事、スケッチ わたのはなしべひらく
で花の咲いた綿でした。

ついに先日、その実がはじけて
コットンボールが顔を出しました。
まさにふわふわと綿のよう。(笑)

綿はアオイ科の植物。
起源が分からないくらい古〜くから栽培されていたようで、
牧野の植物図鑑によると、東アジア原産だそうです。

そう言えば、9月に東京国立博物館で特別展示された酒井抱一のまき絵にも
しっかりコットンボールが描かれていましたっけ。

花が咲いたあと、一センチくらいの白い実がズンズン大きくなり
緑色のラグビーボールのような固くて筋が入った
直径3センチ長さ4センチくらいの
実になります。
まだかまだか、と思っていると
ある日、絵の中の右上の実のようにボールの筋から
カパッと開いて中から綿が出てきます。

その白い綿は、絵の下の実のように、
徐々に外にせり出してきます。
手で触ると、ふわふわの綿の中にしっかりタネが。

人間との付き合いは長いとはいえ、
別に綿は人間のために生まれて来たわけではなく、
綿自身の生き残りをかけた戦略上、
ふわふわの綿の中にタネを収めることになったはず。
風に飛ばされて遠くにいくためか、
寒さや乾燥からタネを守るためなのか、
いずれにせよ、人間はちゃっかり、そのタネを包む綿を
紡いで、布を作ったり、布団の中綿にしたりしたわけです。

自分のために歌う、自分のために生きる

水曜日11月13日の日経の夕刊に、
歌手都はるみさんのインタビューが載っていました。

十六歳でデビューして、1984年末に一旦、引退。
確か「ふつうのおばさんになりたい」と言って。
五年後に復帰した時のエピソードです。

シャンソン歌手のエディット・ピアフのドキュメンタリー番組を見て、
「自分のために、自分が歌いたいからという理由で歌っても良いのか」
と目から鱗が落ち、歌手復帰をその場で決めたそうです。

休業前の都さんは、
売れてなんぼで、賞を取って認められる事ばかりを
追及していた、と振り返ります。

考えさせられる記事です。
売れるために歌う。
賞を取るために歌う。
お金のために歌う。
名声のために歌う。

もちろん、お金という対価が払われる事は
いい加減な気持ちでは受け止められない事です。
対価のお金には人々の汗がしみ込んでいるからです。

しかし、もし、コストパフォーマンスだけをいうならば、
歌う都さんは歌う度に「取引き」だけをしていることになります。
それでは疲れてしまい、スカスカになってしまう。
だから休業することになったのかもしれません。

休業前の都さんは「なんで自分はこんなに不幸なんだ」
と思っていたそうです。
お金も名誉もあるのに。

都さんに取って、歌う事は生きる事です。
「自分のために歌う」は「自分のために生きる」に置き換えられないでしょうか。

私たちは「社会に役に立つ人間になれ」
と言われて育ちます。
それ自体は間違ってはいないのでしょうが、
重要な事が一つ欠けていると思います。

「自分のために生きつつ、社会の役に立てるように」
というのが本当なのではないでしょうか。
社会は個人の集まりです。
もし、社会があっての自分しかなければ、
それは社会の一員かもしれないけれど、
同時に歯車になりかねません。

311以後、私を震撼とさせた言葉のひとつに、
「自分だけ生き残りたいのか?」があります。
放射能を避けて避難したり、
汚染されていない食べ物を食べさせたくて、
子どもにお弁当を持たせようとしたお母さんたちに浴びせられた言葉です。
私は、この言葉に、ずっと薄気味悪さを感じていました。

誰かの命は持ち主以外、誰のものでもないはずです。
誰だって生まれたからには生きたい。
そう思う事が「エゴ」とされる社会。

でも、自分の人生を自分で愛せなくて
何の人生か、とも思うのです。

名声のためではなく、歌いたいから歌う。
生きたいから生きる。
自分を愛せない人が、他者を愛することは出来るのでしょうか。

私たちの社会では「人に迷惑をかけない事」が美徳とされています。
しかし、自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が、
日本では突出して多いのです。

日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字より
日本 38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ 7%
中国 9%
インド 8%

リンク先を見ていただければ、ソースがありますから是非見て下さい。

冷酷な社会のように見えますが、
むしろ、自分を本当に大事にする事、「自分のために歌ったり、生きたりする事」
が出来にくいから、こういう数字になるのではないでしょうか。

実は、この「自分のために生きる」、
反対方向に突き詰めて行くと、
社会のために生きる → 国のために生きる → 国のために死ぬ。
ということになりかねないのです。

311以降の「自分だけ生き残りたいのか」
という言葉はファシズムとも親和性が高いのだと思います。

むしろ、
「自分だけ生き残りたいのか」と言われたら、
「自分は生き残りたいし、あなたにも生きてほしい」
と言える社会の方がどれほど前向きでしょう。

多くの人が毎日社会のために懸命に働いています。
同時にその人たちにも家族や自分の人生もあるし、
またいつ、事故に遭ったり病気で働けなくなるかもしれません。

綿の実が自分の生き残りのために紡いだ綿が人に役に立つように、
誰でもが少しでも「自分のために歌う」ことが、
同時に人々のために歌う事になる、
という方がずっと楽しいはずです。

もし、隣の人が「自分自身のために楽しく歌っている」
のを見たら、「あいつだけずるい」なんて叩かず、
自分も自分なりに楽しく歌いたいものです。

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自分のメディアを持つこと / カラスウリの図

今日の一枚
アルシュ紙に水彩、色鉛筆

アルシュ紙に水彩、色鉛筆

カラスウリの花は、夏の夜に白く咲き、ガがその花粉を運びます。
その五弁の花から細く長い糸がたくさん出て
熱帯夜の夜に絡み付くようにあやしく光り、
ガが吸い寄せられるかのよう。

秋になると、この絵のような長さ4、5センチ、直径3センチくらいの
俵型の赤い実を付けます。
黄色い種類はお化粧品の材料としても使われるようです。

自分のメディアとしてのブログ

このブログを始めて10ヶ月。
今は一日に平均5〜60人の方に来ていただいているようです。

もう、10年以上前になると思いますが、
テレビ朝日の「朝まで生テレビ」で
インターネットがテーマだったとき、
子飼弾さんが、
自分のメディアが持てる時代
とインターネット時代のことを表現していて、
とても印象に残っています。

私は、団塊の世代より少し下の世代です。
多分、学生時代の同級生などと比べるとネットに親しんでいるほうでしょう。
20年くらい前に、建築CADのオペレーターをやっていた事もあり
何の抵抗も無く、Macユーザーになりました。

と言っても、
今のCGの進歩などにはついて行けませんし、
ついて行く必要もないと思っています。

CGの世界は、もう、手描きがいらないのではないか、
と思われる程の進歩です。

それでも、私は手描きにはCGにはないチカラがあると思っています。
それは、写真が登場しても、「肖像画」という分野が無くならないことからも
分かります。

ただ、ITは、特別な人のものであったアートを
万人に開いたと思います。
ある程度のセンスがあれば、
かなりの表現ができるようになりました。
最近は3Dプリンターも出て来て、
立体すら、アイデアがあればかなりのことができるようになってきました。

写真の世界もデジタルカメラで様変わりしました。
やはり、素人の参入がとても簡単になりました。
もともと写真は詳しい人が多いし、昆虫を撮り続けたり、
カワセミの写真集を出す人などもいるようです。
写真ブログは見切れないくらいたくさんあるし、
イラストのブログもランキングに600以上登録されています。

それでも、スタジオ撮影や物撮りは
専門家の牙城です。
先日、テレビで、四万十川のカワセミを現場でカメラマンが撮れず
東京で撮ったものを放映して問題になりました。

自然相手では、人間の思い通りにならないことがほとんどです。
自然を撮影するカメラマンの仕事は「待つ」ことだと言っても過言ではないでしょう。
時間のある時に撮影する素人ではやはり出来ないこともたくさんあります。

物書きも同じようにある程度の受難は
免れないかもしれません。
ネットには、玉石混合とはいえ、
溢れる程のブログがあって、多くは無料で読めます。
もちろん、堀江貴文氏や津田大介氏のように、
メルマガを発行してそれなりの収入がある人は、
現実世界でも本を出しています。
よほどの内容がない限り、メルマガを購読する人は多くはないはずです。

ネットはウソばかりデマばかり、
というのは一面で、
ある面、とてもリアルを反映しているのです。

そんな中、私がメディアとしてブログを運営するには
大きなモティベーションがなければなりません。

最初は、細々と描いて来たデッサンを見てもらうつもりで始めました。
しかし、そのうち、もっと積極的にメディアとして使いたい、
と思うようになってきました。

9月くらいから試行錯誤で、
小さな彩色画を週2回くらいあげるようにしています。

大きさはハガキ大くらいからB5くらいの小さなものですが、
8割以上完成していること、
と自分に課して、描いています。

大変なこともあるのですが、自分のメディアを持っている、
ということは、良い意味でプレッシャーになり、
一日くらい遅れることはあっても、
なんとか頑張れるのです。

私の世代になると、仕事や要職についている人以外は
食べ歩いたり、旅行したり、
家ではDVDやテレビを見て過ごしています。

私は、パソコン業務のアルバイトをしながら
せっせと絵を描いているわけです。

テレビは面白くないし、
311以降、世の中のゆがみがひどくなるし、
外食も味付けが似たような感じで美味しくなくなって来たし、
普通に暮らしていたら愚痴ばかりになりそうですので、
時間を見つけてひたすら描いています。

それが出来るのも、
こうやってブログを運営して不特定多数の人が
見に来て下さるからです。

また、里山活動をしているNGOの機関誌の表紙も
2年前から引き受けています。
報酬はないのですが、様々な条件下での、
技術の試行錯誤がとても面白いです。
こちらは紙媒体ですが、やはりメディア。

藝術というのは、作り手だけでは成り立たないのです。
ブログという世界に広がったメディアを持つことの意味が
増すこの頃です。

本家のホームページも、自分で作りました。
ご覧になってない方がいたら是非見て下さい。
マダムかよこのアトリエ
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私がツイッターにハマるわけ / イヌタデとツユクサの図

今日の一枚
アルシュ紙に色鉛筆、水彩、ガッシュ

アルシュ紙に色鉛筆、水彩、ガッシュ

私は、何故か、花の咲かない羊歯や路傍の小さな野草に引かれます。
今日は、イヌタデとツユクサ。

庭のヒメコブシの木の下に、モサモサとまとまって
イヌタデが生えて来て、そのピンクの実をくねくねと
お互いに絡ませます。
その間に覗かせたツユクサの透明な青が印象に残ったので
描いてみました。

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さて、SNSは、ミキシィ、フェイスブック、LINE
などいろいろありますが、私はやはりツイッターが一番好きです。

ツイッターの面白さは、その開放性と機能性、速報性です。
ミキシィなど前者三つは基本的には、現実での人間関係をネットに反映して広げたもの。

しかし、ツイッターは全く知らない他人と、
140文字の文章だけで交流出来るものです。
登録すれば、ロム出来るし、
別に交流しなくても自分で呟くだけでも良いし、
フォローしあえば、ダイレクトメールも送れる。
アカウントが匿名でも登録出来る事も多くの人の敷居を低くしているでしょう。

聞いた話では
ミキシィは大学生に人気、
ファイスブックはビジネスマン、
LINEは中高生とか。

いずれにせよ同じような境遇だったり、
価値観の人たちが集う事が多いでしょう。
一方、ツイッターは、実に多様な職業や年齢の人たちの
幅広い意見や考えを読むことができます。
タイミングがあえば、リアルでは知り合わない人とも
会話を交わすことができます。

いろんな人がいて、いろんな考えがある、
という当たり前の事を
ツイッターは教えてくれます。
実は日本には多様な意見と能力に溢れているのだ、
と毎日思い知らされています。

特に普通の市井の人々のツイートがすばらしいのです。
目から鱗、ということも度々です。

この多様性こそが私がツイッターにハマる
大きな理由です。

しかし一方で
冷蔵庫に入った写真をのせるとか、
有名人のクレカのサインをのせるとか、
非常識極まりない使い方をする人もいるし、
Lineではつい最近は高校生が殺されるという悲劇まで起こりました。
本当に悲しい事です。

拡散、コピーというのはネットの宿命です。
ネットに載せたものは、たとえミキシィ、フェイスブックでも
コピーされたらおしまい。いくらでも流出します。

私がかなり心配するのは、
可愛いのは分かるけど、自分のお子さんの写真を顔が分かる形で
アップする人が意外にいる事。
これは、出来るだけ止めた方がいいでしょうね。

あと若い女性は、今どこにいる、なんて移動する度に呟くのは絶対止めた方がいいです。

「ネットに一度あげたものは消すことは出来ない」
「世界中の人間が見ている」

と思って記事も写真も呟きもアップするくらいが良いかな、
と思っています。

それでも、基本的なやっちゃいけない事を押さえておけば、
ネットは素晴らしいものです。
集合知です。
専門家の論文から、アイドルの呟きまで読めます。

おまけに、ブログなど、自分自身がメディアになる事も出来ます。

道具は何でも使いよう。

特性を知って、そのためには少しは調べて、
うまく使って行きましょう。

そうそれから、私も時々やっちゃうけど、
時間管理。
これは中高生でも問題になっているようです。

私の場合は、職場以外は、夕方までパソコンは開かない、
そしてスマホは持たないことにしています。
と言っても、調べものが出来て開いて、ツイッター覗いたら会話が弾んで……、
みたいな事は少なくありません。

ツイッターをブログの宣伝だけに使う人もいるけど
それももったいないような気がします。

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タネの絵だけ/ スイカとヒマワリの種と蟻の図

さて、今日は、月曜日の続きで
タネの話その2、
遺伝子組み替えのやり方「アグロバクテリウム法」
について書くつもりだったのですが、
眠くて沈没しそうなので、
タネの絵だけあげておきます。
「アグロバクテリウム法」については、出来れば一両日中にアップします。

20131017seed
彩色画のスイカは
小さな虫博士や鳥博士を応援する/小さなスイカと虫の図
の記事に載せたスイカを半分に割ったものです。

ヒマワリの種は、昨年咲いたヒマワリから採取したもの。
この種は蒔くと花が咲くのかな?

え、タネを蒔けば芽を出すのが当たり前じゃないの?

……のはずが、どうも最近は様子が違うのです。
人間はお金と効率のためには、いろんな事を考えるのです。

その話も一緒に書きたいと思います。 

   

 

タネの話(1)/ 3葉のイネの図

半年前、4月から田んぼ作りに参加してきました。
ついに昨日はハザ掛けから降ろして
脱穀でした。

脱穀機も足踏み式の古いもの。
次々と黄金色の粒がバケツに集められて行きました。
最後まで現場にいられなかったので、
総量はどのくらいになるのかわかりませんが、
軽く60キロは越えたのではないでしょうか。

今年は、雨が少なかったけれど、ギリギリ足りて、
また、刈り取りの前に台風が来る事も無く豊作だったと、
毎年行事のお手伝いをされている方が仰っていました。

もとはと言えば、一粒のタネもみ。
それが、水と太陽の力で、400粒にも500粒にもなるのです。

20130415
↑ これを蒔くと、
↓ 一ヶ月くらいでこうなって、田植えをして水をはり、
20130821001
↓ 最後はこうなります。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

一粒のタネから、鈴なりの実を成らす植物。
品種改良されているとはいえ、
まさに自然の恵みです。

しかし、この「一粒が500粒になる」タネ、人間から見ると、
一万円が500万円になる、と見えるのでしょう。
放っておく訳がありません。
「タネを制するものは食料を制する、食料を制するものは人類を制する」
と世界のタネ企業は、世界市場を支配しようとしのぎを削ります。

そのタネのお話を、タネ屋の3代目である野口勲さんが書かれた本が
タネが危ない」です。


何やら人を煽るような題名ですが、読み進むうちに、
タネをめぐる人間の飽くなき欲望が推進する技術には、
デンジャラスな匂いが立ちこめてきます。

その代表格が「遺伝子組み替え」(GM作物)です。

実は2週間ほど前に、映画「世界が食べられらなくなる日」を見て来たばかりです。

この映画は、カーン大学のセラリーニ教授が
モンサントのGM作物をラットに食べさせる実験を行い、
それを、ジャン=ポール・ジョーが映画にしたもの。
モンサント社の実験は3ヶ月までしか行いません。
それで安全と言って売っているのですが、
映画では、実は4ヶ月目からラットは死に出すのです。
ラットの寿命は2年。
2年かけた実験結果は恐ろしいものです。

で、この映画を作っている時に、ふくいちの事故が起き、
監督は必然的に原発問題もこの映画で取り上げることになります。
映画にはフランスの原発の実態も映し出されます。

そして、映画では、
「これは命の問題」
「政府は必ず嘘をつく」
「私達はモルモット」
「子どもたちのために戦う」
などという言葉がインタビューで頻繁に出てきますが、
原発の状況ととまったく同じです。

そして、ジャン=ポール監督は
原発と遺伝子組み替えという二つのテクノロジーには
三つの大きな共通点があると言います。
①取り返しがつかない。
②一度汚染されたら元に戻らない。
③世界中にすでに存在している。

ところがもっと恐ろしい事を、セラリーニ教授は説明します。
この二つは、似ているだけではなく、実際に「遺伝子組み替え作物」と「核技術」を開発したのは
250の同じ企業グループで、しかも彼らは世界の富の半分を支配していて、
この体制が支配層を生み、民衆を犠牲にしてきている。
彼らの利益のために、すべてが犠牲になっている、と。

まさに、1%と99%。

しかしですね、
私は思うのですが、確かに1%の人たちは核技術や遺伝子組み替えで、
莫大な利益を得ているかもしれないけど、
同時に他者の足下だけではなく、生態系という自分達の足下も崩しているように
私には思えるのですよね。

それはさておき、
映画のラットの実験は公表され、
その結果は「ヤバいぞ」ということになり、
ヨーロッパでは遺伝子組み替えは拒否されてきています。

それでも、先の野口勲さんの「タネが危ない」を読むまで、
私の「遺伝子組み替え」への怖さは漠然としたものでした。
腫瘍ができたりするから怖いものなんだ、というイメージ。

しかし、その技術「アグロバクテリウム法」を知ると、
もうイメージではなく、ほんとにやっちゃいけない事やっている、
という思いが強くなります。

この問題は、引き続き次回に取り上げようかな、
と思っています。