私の父は、先の大戦でシベリアに抑留されていました。
もともと口の重い人でしたから、
そして、戦争体験を話すことは、
想像以上に本人には辛いことだったみたいで、
あまりたくさんの話しを聞いていません。
今にして思えば、もっと聞いておけばよかった、
と思いますが。
断片的ですが、
今の日本人には想像もつかない話もあるかと思うので
8月15日に記しておきます。
父は、戦争当時、北朝鮮で暮らしていました。
日本領だったのですね。
親戚には、満鉄関係者がいましたが、
父自身は民間の事業で資源を求めて北朝鮮に渡り、
東京本社の父の父、つまり私の祖父の仕事を助けていました。
父にももちろん徴兵の赤紙がきますが、
極端な近視であったため、徴兵検査で丙種不合格で
最後の最後まで戦争には行きませんでした。
当時は、甲乙丙(こうおつへい)と健康状態が分けられ、
甲種合格はすぐ前線に送られたのでしょう。
で、そのまま父は仕事を続け、
3月10日の東京大空襲の直後に
北朝鮮から東京に出てきて、
焼け野原の東京を目にします。
当時は、直江津などと定期船が半島との間を行き来していたようです。
で、新潟から焼け野原の東京に
どうやって来たのか聞きませんでしたが、
戦時下でも、人々の生活が営まれていたことが分かる話しです。
で、定期船を使っていると、特高とも顔見知りになります。
ところが、その東京大空襲で焼け野原になった東京を見て北朝鮮に戻った直後、
父は今度は本当に兵隊に引っ張られます。
思い当たるのは、その顔見知りの特高が、
帰りの船に乗るときは、挨拶しなかったことです。
父は焼け野原の東京を見て「日本は負ける」と確信しましたが、
そういう情報を一般の人間が持って帰ることがマズいので
兵隊に引っ張られたのだろう、
と父は言っていました。
真相は分りませんが、
あり得ることです。
で、父は、生きて帰れないかもしれないから、
当時の家族のことを近所の人に頼んだり
妻や子どもに言い含めたりして、出征して行きますが
二度と長男の顔を見ることはありませんでした。
で、父は半島で出征します。
そして、ちょうど参戦したロシアにシベリアに連れて行かれます。
父は1912年(大正元年)生まれですから、
当時は32歳。
シベリアの抑留は本当に辛いものがあったと思いますが、
「絶対に生きて日本に帰る」
と誓ったそうです。
父の話しで意外だったのは、抑留生活で簡単に命を落とすのは、
頑強な10代20代の若い人たちだったそうです。
十分な食料が無いのは当然のうえ、
若いと空腹が我慢できなくて、
そこら辺にあるものなんでも食べてしまうので、
お腹をこわし死んで行くのだそうです。
父が助かったのはタバコを吸わなかったからかもしれません。
というのは、軍隊は、食料は不十分でも
タバコだけは配られていたのだそうです。
そこで、父は、配られたタバコを貯めて、
こっそり裏から食料班のところに行って
食料と交換してもらい、なんとか食いつないだと言っていました。
シベリアの抑留生活は本当に辛く言葉にするのもイヤだったみたいです。
冬は、放尿すると、その先から凍って行った、と言います。
父はいつ日本に帰って来たのか、
帰国の時どこの港に着いたか、
ほとんど覚えていないのですね。
叔母に言わせると、骨と皮の状態で帰って来たみたいで、
本当に命からがら、だったのでしょう。
この記事を書くにあたり、抑留生活を絵にして残した方がいることを知りました。
★ 旧ソ連抑留画集 ~ 元陸軍飛行兵 木内信夫 ★
管理人は息子さんの木内正人氏。
このかたの記録を読んでいて、父もよく言っていたのが、
ロシア人の歌のうまさです。
一人が歌いだすと、すぐ合唱になるのだそうです。
なお、シベリア抑留をテーマに描いていた画家もいます。
香月 泰男(かづき やすお)です。
独特の黒色はシベリア抑留が原点と言われています。
香月泰男美術館
ただ、この美術館でベリア抑留シリーズはすべてを見ることはできないようで残念です。
グーグル検索で見られます。
ここに書いたものは、父の話しで記憶にあるものです。
極限状態で、父本人の記憶違いもいっぱいあるでしょうが、
戦争になれば、被害を受けるのは、普通の国民です。
そのことだけは、はっきりしていますね。
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