タグ別アーカイブ: 森有正

川を遡る船のように突然現れる何か

久しぶりの存在証明です。
更新しない間も、検索エンジンから来て頂いていて、
過去記事も生きるブログならでは。
検索文字も、ネット詐欺から山茶花デッサン、まで多彩です。

ほんとうは2月に入ったら、どんどん更新する予定でした。
記事も下書きがいっぱいあって、清書すれば上げられるものが10本位たまっている。

でも、いつもパソコンの前で考え込んでいました。

あまりに現実が浮世離れしていて
(という言い方も変だけど)
劇画みたいで、
ホントこの先、日本はどうなっちゃうのだろう。
出るのはため息ばかり。
全然言葉が紡げない。

歴史の海のただ中にいると、なかなかそれを自覚するのは難しい。
パリに客死した思想家の森有正はエッセイの中で
流れているのか流れていないか分からないような時間の動きを
セーヌ川を遡るバトームッシュ(遊覧船)の動きに例えています。

川の流れに添って(上流から)下る船は目の前をすーっと通り過ぎていくのに
遡上して来る船は彼方から移動して来るのに、ほとんど動いていないように見える。
書物に目を落して、ふと目を上げると、まだ、動いているようには見えない。
そんなことを繰り返して、まだ来てないだろうと思って顔を上げると
今度は船はほとんど目の前に来ていて、驚く。

本来、時の流れというのはこういうものなのでしょうが、
今の政権になってから、
日々の変化がすごくて毎日が歴史のただ中という感じ。
その波の強さに個人ではとても抗しきれなくて
苛つくばかり。

多くの人が、自覚するしないに関わらず
似たようなイライラ感を抱えているから
街に出ても何となく殺伐としているし
テレビやニュースもその時々の誰かを叩くことに熱心。

株価は上がっていると言うけれど、
散歩していると街は空き家が増えているし、商店街もなんだか活気が乏しい。
実感とニュースが違いすぎるのですね。

原油が下がっているので、
なんとか円安でも息継ぎが出来ている。
でもそれは、裏を返せばアベノミクスが破綻しているにもかかわらず、
延命している理由で、それも後から影響が出そうで怖い。

たったひとりの息をを吐くように嘘をつく政治家によって
ここまで国が変わることを目の当たりにすると、
本当に政治って大事だな、重要だな、と思う。

しかし、一方で、どんな局面でも日常は続くんだな、
とも思う。
先の森有正の例えだと、
セーヌ川の流れが日常だとすると
バトームッシュはなんなんだろう。

ああ、もしかすると「戦争」かもしれないし「改憲」かもしれない。

まだだまだだ、と思っていると、
もう目の前。

何が気に食わないか、と言うと、
「改憲」したいならコソコソしないで堂々と発議すれば良いのにしないこと。

結局嘘をつくのも、国民に都合が悪いことだからですね。
そうやって進めることはろくでもないものに決まっています。

明日から3月。
3月決算の単年度の日本は、一月行った、二月逃げた、3三月去った
と言います。

しかし日常に長されつつも、時々バトームッシュの動きを確認することが
とても重要な新年度になりそうです。

最後に2007年に第79回アカデミー賞外国語映画賞を受賞したドイツ映画
「善き人のためのソナタ」をご紹介しましょう。

このところの急速な時代の流れを
どういう形で言葉にできるか考えていた時に
急にこの映画を思い出したのです。

この映画は東ドイツ時代の監視社会を描いた秀作です。

言いたい事が言えない監視社会。
強固な共産主義体制を敷いていた旧東ドイツには、
その統治機構の中枢をなしていたシュタージという組織があり、
芸術家や西側の情報を手にする人たちを監視活動していた時の話しです。

この映画を見た時は全くの別の世界の話しと思っていた社会が
実はそれほど遠いところのことではなかったのだとも思います。
ほんとうに日常と非日常は地続きなんだと思いしらされています。

この「善き人のためのソナタ」では、そのシュタージの工作員が、
西側と通じているという小説家の監視を命ぜられます。
その盗聴のための工作など「ここまでやるか」感があって驚きです。
ところが、工作員ヴィースラー大尉は、小説家の生活を垣間見るところから
少しずつ心が揺らいでいきます。

そのキッカケになるのが、美しい音楽なのですね。
美しい音楽に心をゆらされるシーンは秀逸です。
その変化の様子をウルリッヒ・ミューエという東ドイツ出身の俳優が演じます。
ウルリッヒ・ミューエ自身、東ドイツ時代シュタージに監視されてたと言っています。

この映画、監視だけではなく愛もあり裏切りもあるのですが、
結末がなかなか良いのです。
お薦めです。

「木々は光を浴びて」森有正

あなたは自分の価値観や人生に大きく影響する本に
出会ったことはありますか?
本というのは顔の見えない出会いともいえるかもしれません。

私がその本と出会ったのは、
大学を出て中堅企業に勤め出して
いわゆる「五月病」っぽくなっていた時でした。

「会社社会」というのは驚きの連続でした。
私には毎日がお疲れの日々。
そんなとき、何気なく立ち寄った本屋で見つけた本が表題の
森有正著「木々は光を浴びて」
という本でした。

単純に「良い題名の本だなあ」と思って手に取ったのです。
著者が、パリに在住する思索家、森有正であることも
知りませんでしたし、
だいたい森有正という人の名前を見るのもはじめてでした。

しかし、題名に引かれてページをめくってみると、
そこには、少し難しいけれど、魅力に溢れた言葉が並んでいました。
そこで私はその本を買って帰りました。

森有正のエッセイ集のようなその本は
初版が昭和47年、私が買ったものは昭和55年の第11版でした。
多くの人に読まれた事がわかります。

森有正は「経験」について語ります。
例えば、
「経験とは、〜中略〜、自己を絶えず新しくすることである。」 ←この言葉にはグラッと来ましたね〜。
「我々の「経験」に現れることを、あらゆる注意と理解を持って徹底的に生きることである。人の言うことではなく、我々個々の中に判断の中心を確立することである」

などなど。

もともと、あまり集団の中での空気を読むのが得意でなかった私は
「会社社会」の生きにくさは人一倍感じていました。

しかし、この本のこのような言葉と出会って、
いろいろなことを経験して、いつも新鮮で、
自分で判断の下せる人になって行こう、
と思い、会社勤めも経験として行かせれば、
と気持ちが入れ替わったのです。
私にとってこの本は、まさに心に光を降り注いでくれた一冊なのです。

20130507

ただ、
森有正は「体験」と「経験」は違うとしています。
「体験」が「経験」へと変貌することが
重要で、「体験」が個人の属性であるならば
「経験」はもっと普遍的なものである、
としています。
ただ、当時は、私自身ここまで理解していたとは思えません。

と一方で、
森有正はパリで客死した人ですから、
日本を遠くから眺めて思索する日々を送って、
今改めて読み返しても、ぐさりと来るような
日本への思いが残されています。

「そういう「経験」が私どもの中で生長して行く時に、期せずして、しかも必ず、「民主主義」や「自由」や「平和」に対する何ものかが私共の生活の中に生まれて来るのを見るであろう。 〜中略〜 だからある意味で、今日こそ日本は真に自分の足を持って歩み、自分の経験を中核として自らの将来を築きあげて行く機会に再会しているのだとも言えると思う。」

この一節は、「雑木林の中の反省」という章からの引用ですが、
今の日本社会の有り様は、むしろ
このような「経験」をしないで済まそうとして来た結果かもしれない、
と思うのです。

さて、
このブログを始めたのが、1月24日でした。
それから102日あまり。
その間にアップした記事は83。

体力的に毎日上げられない事は分かっていたので
無理せず、でも自分なりに工夫して来ました。

夫以外は見に来ていない、という日もありましたが、
基本的に手は抜かずに、言いたい事を言い、
見てもらいたい絵を上げてきました。

不思議なもので、
最初はひとつ書くのにほんとうに難儀でしたが、
最近は夜寝る前にかなりのスピードで
記事が書けるようになってきました。

今はまだ、「体験中」かもしれませんが、
こういう体験の積み重ねが経験となるのでしょう。

少なくとも、体験を積み、経験を重ねることで
いつも新鮮な自分でいられるのは
ブログを書く苦労以上に素敵なことかもしれません。

英語でも内容は遥かに簡単ですが、記事をアップしました。
Trees Bathed in Sunlight

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