アートな一期一会 / 紅葉とドングリの図

今日の一枚

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク

画用紙に水彩、色鉛筆、ペンと顔料インク


赤や黄色に色づいた葉っぱが
ハラハラと舞う季節です。

これから一ヶ月、冬至まで昼間の時間がドンドン短くなります。
4時には暗くなりますから、
ちょっと時間を損したような気がするくらいです。

しかし、
インターネットのなかった時代は、
ほんとうに「秋の夜長」でした。

ちょっとしたことが簡単に調べられるようになった反面、
気をつけないとSNSで過ごして、
長い夜が味わえなくなっているのかもしれません。

一期一会の感動

さて、時間ではなくお金の話です。
今から考えると不思議なくらい
お金は汚いもの
だから売り絵は描いちゃいけない、
みたいな風潮が長らく美術界にあったように思います。

美術界だけではなく、
「お金のために働いてるんじゃない」
という一種の気概が、日本をGDP世界一に押し上げたのは確かです。

しかし、皮肉なことに、それがそのうちサービス残業に化け、
過労死なんて言葉まで生む状態に繋がって行きます。

そしてむしろ、311以降には
私たちが思っている以上に、日本社会が拝金主義になっていたことを
思い知らされます。

まさに「命か金か」みたいな状況が出現したわけですが、
今日は、話をアートに限りたいと思います。

資本主義社会である以上、
すべてのものと交換可能なのが
今のところ貨幣しかないので、
人の能力やアートの価値も「お金」で換算される、評価される、
というのが基本です。

それは必然的に「売れる」ということを意味します。
「売れる」ということは、もちろん凄いことです。

というのはやはり、
人は自腹を切ったものに対してはそれなりのコストパフォーマンス
を要求しますから、対価に対しては評価が厳しくなります。

ですから、売れるものはある程度以上の評価がある、
と考えていいと思います。

しかし一方で、
資本主義とは、資本側が非常に恣意的に
その「売れる」状況を作れることも意味します。

言わばマーケティングです。

特に、テレビと徹底したマーケティングに免疫のない日本社会は、
資本の雨霰と降り注ぐ情報の送り手側が、
かなり恣意的に、その「売れる」状況を作ることができます。

アートの場合、
もちろん基本はその作家の作品の評価です。
作品が一定水準以上でなければ、
売りようがありません。

しかし、最近はやたらと
「物語り」を流布することで、
作品の評価とは別の意味合いを、その作家の存在に持たせることもあるようです。

例えば,日本画家松井冬子さんの場合、
ご本人の作品を語る時になぜか、
「美しすぎる日本画家」と言った形容詞がつけられます。
そしてその絶世の美女が、何浪もして芸大に入り、
女性として博士号を初めて取った、
となれば、話題につきません。

誰でも、美人は好きです。(笑)
そして、松井さんは本当に美人。
でも、その事と、松井さんの作品の評価は関係ありません。
松井さんの絵が売れるのは作品がいいからです。
でも、展覧会場に沢山人が行くのは
もしかしたらマーケティングの成果かもしれません。

実は私たちは、作品と作者を結びつけがちですが、
これはあまり作品鑑賞にはいい影響を与えるとは思えないのです。

もちろん、作者の人生があって作品があるわけです。
それでも、
まず純粋に作品に接することを習慣づけたいです。

時代背景など知っておくと理解が深まる、
ということもあります。
それでも、
なるべく初めてのデートをするような気持ちで
作品と接してみてほしいと思います。

5年ほど前に、夫とフィレンツェに行ったことがあります。
ルネッサンスへの道を開いたとされるマサッチオの壁画を見に
教会へ行ったところ、
その肝心なマサッチオの絵を見ずに、夫はひたすら天井を見ているのです。

どうしたのか訊ねたら、
「凄いね〜、この教会、外から見ると3階建てなのに、中は五階建てなんだね」
と言うわけです。

その丸天井には、壁画がが描かれていたのですが、
柱や破風が描き込まれていたので、
さらに上の階がある、と夫は思ってしまったのです。

簡単に言えば「騙された」のですが、
しかし、その時の夫の感動は本物のわけです。

その後、天井画で有名な教会へ行っても
夫はもう、それが絵だと知っていますから、
絵にしか見えません。

一期一会。
その時かぎりの感動。
絵やアートだけでなく、
音楽や文学にもあるでしょう。

情報過多の時代、
あえて物語りに耳を傾けない方が
心の目で作品を見ることができ、
いい出会いがあるかもしれません。

ネットの無かった時代、
長い夜に読みふけった本が
一生の友になるように。

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