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コツコツやれば「きっと、うまくいく」/青空に映えるコスモスの図

先日,ようやく、
インド映画「きっと、うまくいく」を見てきました。
半年、ロングランするだけの事はあって、
元気が出て、楽しめる映画でした。

インドは映画が盛んで年間1200本もの作品が作られます。
なんとハリウッドの2倍,日本の3倍です。
インドには行った事はないのですが、とてもカオスの国のようで、
日本の尺度では測れない部分があるように思います。

私は実際に何人かのインドの方と話す機会があって、
速射砲のように早い英語を話すので,聞き取りに苦労したものです。
「きっと、うまくいく」の中でも、
英語とヒンドゥー語がチャンポンで出て来て、
インドなまりの新幹線なみの早口英語でした。

聞くところによると、アメリカのマサチューセッツ工科大学より難しい
大学があるそうで、ゼロの概念が生まれた国らしい
歴史を感じます。

一方で、レイプや女性に薬品をかけて傷つける事件もあとを
絶たない、みたいなニュースも見かけます。

以前、ザナ・ブリスキという女性カメラマンが
インドの売春窟に生まれた子どもたち相手に写真を教える、
という内容のドキュメンタリ映画「未来を写した子どもたち
を見たことがあります。

絶望しかないような売春窟に暮らす子どもたちが、
なんと自分達の撮った写真の展覧会で集めた資金で
学校に行けるようになるのですが、
しかし,さまざまな理由で結局学校を去ることになる子どもが
少なくありません。
現実の不条理を一身に背負って生きるこども達。

確かこの映画にでて来たと思うのですが、
町中の道路の壁にパソコンが埋め込まれていて、
インターネットが使えるのです。
習わないでも,自在にネットを使うこどもたち。

とにかく、貧困と絶望と希望と知性が混沌と入り交じっているのです。
どこ行ってもコンビニと100円ショップがあるような
均質な日本からは考えられないような、
多様性と混沌。

一方日本の均質化は閉塞感とも繋がっています。
インドの貧困などから来る絶望感とは違う,八方ふさがり感。

「自分」を殺して行けば,そこそこの暮らしが出来るので、
多くの人は閉塞感の手助けをしつつ,現状を選びます。
そこそこの暮らしとそこそこの人生。

そんなのつまらないよ、
やりたい事やって生きようよ,というのが
映画「きっと、うまくいく」のメッセージでした。

だからヒットしたのかもしれませんね。

しかし、当然の事ながら、
主人公が成功するのは勉強するからです。
主役の一人が動物写真家になるけど、
彼も実はせっせと写真を撮っています。
原題は「3 idiots」(3人のおばかさん)。
しかし,おばかさんどころではなく、
3人とも着々と未来に向かって進んでいたのです。

仲間がいて,励ましあえれば素敵だけれど、
この3人は出会う前にすでにそれぞれがやる事はやっていて
お互い,ちょっと背中を押し合っただけ。

やりたいことや勉強は一人でコツコツやればいい。
人に話すことはないし、許可もいらない。
天は自らたすく者をたすく。
「きっとうまくいく」はそういう人のための呪文なんだ、
と思った次第。

というわけで、私も今日も楽しく,コツコツ絵をアップして行きます。

「きっとうまくいく」

紙に色鉛筆、水彩

紙に色鉛筆、水彩

今日のスケッチは、立川にある「昭和記念公園」で震災の前の秋に描いたもの。
公園には、この季節になると、コスモス畑が出現します。

スケッチのコツ、差異の目と統合の手 / ハザ掛けの図

昔懐かしい、
稲をハザ掛けにして干している様子です。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

このハザ掛けは横に20メートルくらいはあるでしょうか。
それをやはり20メートルくらい離れたところから描いています。

どれほどカメラの技術が進んでも、
こういう構図は絵の方が遥かに得意です。

むしろ絵が得意、というよりは、人間の目の方が
カメラのレンズより得意、という事でしょうか。

絵の補助にと思って始めたカメラも
一万枚くらい撮りました。
少しカメラに慣れて来た、という感じでしょうか。
デジタルカメラはいくら撮っても捨てられるので
とにかく撮ります。
だからうまくならない,という見方もあるようです。
銀塩写真のように結果が出るまで分からないうえに、
現像や焼き増しにお金がかかれば緊張して
必死に考えて撮るから上達するというのもわかります。

でも私は、デジタルカメラに感謝です。
最近は,動くものは動画に撮って家で繰り返し見る
という事もするようになりました。

昔の人は,時間もあったし目も良かったのだなあ、
と改めて思うこの頃。
伊藤若仲さんにも歌川広重さんにも酒井抱一さんにも
リスペクト、深い深い尊敬の念を抱きます。

人間の目とカメラのレンズの話ですが、
上のような構図の場合,横を全部入れようと思うと、
カメラは広角にならざるをえず,どうしてもゆがみが出ます。
35ミリくらいで撮ろうとすると,何枚かに分けないと難しいです。
その点、人間の目で見て描く絵は,無理なく全体を描くことができます。

よくデッサンの本を見ると、
片目をつぶって鉛筆など長いもので測る,という場面が出てきますが、
私はほとんどモノを使って測る事はありません。
何故なら,人間の目は「差異」にものすごく敏感で
目の前に本物があるなら、下手に測るより
自分の目で繰り返し見た方が,違いが分かります。

銀行の事務員が印章の確認に紙をパタパタさせて
残像で確認するのも、人間の目が私達が思う以上に
差異に敏感である事の証左だと思います。

ただちょっとしたコツはあります。
絵から離れて、対象と距離を置かずに見比べられる状態にする事です。
極端にいえば、対象を見てから背中においた絵を見くらべても
小さな差異は見つけにくいです。

印章の紙をパタパタするように、
対象と絵を見比べる時にあまり目を動かさなくて
いい状態で見比べる事が肝心です。

さて、鉛筆で測る時にはたいがい片目で測ります。
当然の事ながら視点もずれます。
正確に測ったつもりでも狂いが出るのは、
片目で見るからですね。
片目になる度に対象物は、私の脳の中で移動します。

目が差異に強いのは形だけではありません。
色もそうです。
人間は2万色以上の色の差異を見分けられると言います。
最初に絵の具を買うとだいたい12色の基本色です。
もちろん、3原色(青赤黄)が有れば絵は描けるのですが、
混色すれば濁ります。
(今は子供用の濁らない絵の具,というのもあるようですが)
濁るけれども、私達は少しずつ色が変化して行く事が認識出来ます。
わずかな混色による差異も、人間の目はわかるのですね。

さて、その 「目の」見たものを脳が処理して
手が画面に色や形を再現して行きます。

この時に気をつけなければならないことがあります。
目と違って,手というのは差異より統合する力が
働く器官のようなのです。

どういう事かというと、
繰り返しとか左右対称など統合された形を手は好むのです。
見た通りに描いているはずなのに、
手は目が認識した差異をなかなか再現してくれません。
ついつい繰り返しや同じような形になって行くのです。

人間が作るものには繰り返しや左右対称が多いのは、
建築物を見ればわかる事です。
一方,人間も含めて自然のものには同じ繰り返しや
完璧な左右対称はあり得ません。
直線や円、球体も人間世界にしかないものです。

養老孟司さんの「唯脳論 」で
人間の頭の中には、こういう自然界にはない形態が
プログラムされているのではないか、
という一説を読んだことがあります。

それは確かめようもない説ですが、確かに
目は明らかに物の形や差異を見つけているのに
脳というフィルターを通すと、手が再現するときには、
統合の方向に向かうのかもしれません。

とすると、どうすれば良いのか。
自分の描いた絵を見て,改めてその絵の中に差異を見つけ出し,
修正する作業が必要になります。
「絵がうまい」というのはこの作業が出来るかどうか、
なのだと思います。

そしてこの時点までの認識や作業手順は
訓練すれば手にすることができるスキルのような気がします。

ただ、形や色がそのまま再現されたからと言って
対象の持つ魂や命の輝きが写し出せるとは限らないのが
絵の不思議なところです。
多分写真もそうですね。

自分が描いているときを思い出すと、
見たものを脳のフィルターを通る時になにか
化学作用が起きて、手にそれが伝わっていく、
そんなことが起きているのかもしれません。
もうその時には、形の再現には手がこだわっていないことが多いです。

さて,今は田舎でも珍しくなったハザ掛けの様子は、
今週末くらいまで東京港野鳥公園の自然生態園で見られます。
運が良ければ、エゾビタキなどの旅鳥も見られるかもしれません。