カテゴリー別アーカイブ: 里山活動

自分のために歌う / わた がはじけた!の図

今日の一枚

スケッチブックに色鉛筆と水彩

スケッチブックに色鉛筆と水彩


以前の記事、スケッチ わたのはなしべひらく
で花の咲いた綿でした。

ついに先日、その実がはじけて
コットンボールが顔を出しました。
まさにふわふわと綿のよう。(笑)

綿はアオイ科の植物。
起源が分からないくらい古〜くから栽培されていたようで、
牧野の植物図鑑によると、東アジア原産だそうです。

そう言えば、9月に東京国立博物館で特別展示された酒井抱一のまき絵にも
しっかりコットンボールが描かれていましたっけ。

花が咲いたあと、一センチくらいの白い実がズンズン大きくなり
緑色のラグビーボールのような固くて筋が入った
直径3センチ長さ4センチくらいの
実になります。
まだかまだか、と思っていると
ある日、絵の中の右上の実のようにボールの筋から
カパッと開いて中から綿が出てきます。

その白い綿は、絵の下の実のように、
徐々に外にせり出してきます。
手で触ると、ふわふわの綿の中にしっかりタネが。

人間との付き合いは長いとはいえ、
別に綿は人間のために生まれて来たわけではなく、
綿自身の生き残りをかけた戦略上、
ふわふわの綿の中にタネを収めることになったはず。
風に飛ばされて遠くにいくためか、
寒さや乾燥からタネを守るためなのか、
いずれにせよ、人間はちゃっかり、そのタネを包む綿を
紡いで、布を作ったり、布団の中綿にしたりしたわけです。

自分のために歌う、自分のために生きる

水曜日11月13日の日経の夕刊に、
歌手都はるみさんのインタビューが載っていました。

十六歳でデビューして、1984年末に一旦、引退。
確か「ふつうのおばさんになりたい」と言って。
五年後に復帰した時のエピソードです。

シャンソン歌手のエディット・ピアフのドキュメンタリー番組を見て、
「自分のために、自分が歌いたいからという理由で歌っても良いのか」
と目から鱗が落ち、歌手復帰をその場で決めたそうです。

休業前の都さんは、
売れてなんぼで、賞を取って認められる事ばかりを
追及していた、と振り返ります。

考えさせられる記事です。
売れるために歌う。
賞を取るために歌う。
お金のために歌う。
名声のために歌う。

もちろん、お金という対価が払われる事は
いい加減な気持ちでは受け止められない事です。
対価のお金には人々の汗がしみ込んでいるからです。

しかし、もし、コストパフォーマンスだけをいうならば、
歌う都さんは歌う度に「取引き」だけをしていることになります。
それでは疲れてしまい、スカスカになってしまう。
だから休業することになったのかもしれません。

休業前の都さんは「なんで自分はこんなに不幸なんだ」
と思っていたそうです。
お金も名誉もあるのに。

都さんに取って、歌う事は生きる事です。
「自分のために歌う」は「自分のために生きる」に置き換えられないでしょうか。

私たちは「社会に役に立つ人間になれ」
と言われて育ちます。
それ自体は間違ってはいないのでしょうが、
重要な事が一つ欠けていると思います。

「自分のために生きつつ、社会の役に立てるように」
というのが本当なのではないでしょうか。
社会は個人の集まりです。
もし、社会があっての自分しかなければ、
それは社会の一員かもしれないけれど、
同時に歯車になりかねません。

311以後、私を震撼とさせた言葉のひとつに、
「自分だけ生き残りたいのか?」があります。
放射能を避けて避難したり、
汚染されていない食べ物を食べさせたくて、
子どもにお弁当を持たせようとしたお母さんたちに浴びせられた言葉です。
私は、この言葉に、ずっと薄気味悪さを感じていました。

誰かの命は持ち主以外、誰のものでもないはずです。
誰だって生まれたからには生きたい。
そう思う事が「エゴ」とされる社会。

でも、自分の人生を自分で愛せなくて
何の人生か、とも思うのです。

名声のためではなく、歌いたいから歌う。
生きたいから生きる。
自分を愛せない人が、他者を愛することは出来るのでしょうか。

私たちの社会では「人に迷惑をかけない事」が美徳とされています。
しかし、自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が、
日本では突出して多いのです。

日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字より
日本 38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ 7%
中国 9%
インド 8%

リンク先を見ていただければ、ソースがありますから是非見て下さい。

冷酷な社会のように見えますが、
むしろ、自分を本当に大事にする事、「自分のために歌ったり、生きたりする事」
が出来にくいから、こういう数字になるのではないでしょうか。

実は、この「自分のために生きる」、
反対方向に突き詰めて行くと、
社会のために生きる → 国のために生きる → 国のために死ぬ。
ということになりかねないのです。

311以降の「自分だけ生き残りたいのか」
という言葉はファシズムとも親和性が高いのだと思います。

むしろ、
「自分だけ生き残りたいのか」と言われたら、
「自分は生き残りたいし、あなたにも生きてほしい」
と言える社会の方がどれほど前向きでしょう。

多くの人が毎日社会のために懸命に働いています。
同時にその人たちにも家族や自分の人生もあるし、
またいつ、事故に遭ったり病気で働けなくなるかもしれません。

綿の実が自分の生き残りのために紡いだ綿が人に役に立つように、
誰でもが少しでも「自分のために歌う」ことが、
同時に人々のために歌う事になる、
という方がずっと楽しいはずです。

もし、隣の人が「自分自身のために楽しく歌っている」
のを見たら、「あいつだけずるい」なんて叩かず、
自分も自分なりに楽しく歌いたいものです。

↓ 猫好きの方へお薦めカレンダー

子どもを守りたい、とも言えないの? / 子どもたちの稲刈りの図

参議院議員の山本太郎が、
園遊会で天皇に手紙を渡したことが政治利用、
で叩かれています。

確かにルール違反なのでしょう。
軽率でもあったでしょう。
しかし、とても議員辞職する程のこととは思えません。

それに、いつものことですが、
一人の人間をメディアから公人からよってたかって
ボコボコにする様は、異常です。
この国からいじめが無くならないわけです。

そして彼の手紙の内容の通り、
この国の喫緊の課題はふくいちです。
さらに子どもたちの命。
先日も、除染残土の山のそばで遊ぶ子どもの写真に
胸を突かれました。
確かに、子どもたちのことを思うと、いても立ってもいられずに筆をとった、
そのくらいの状況です。

すごいと思ったのは作業員の被ばくにも触れていること。
どれだけの人が、いま、現場でこの国の安全を支えてくれている作業員に
思いをいたしているでしょうか。

その間にもウソと欺瞞の政治が続きます。

「秘密保護法案」なんてトンでもない法案を通そうとしたり、
除染残土の塊のそばで子どもが遊ぶような状況を放置したり、
ダダ漏れ汚染水を「コントロールされている」と世界中にウソついちゃったり、
難病支援を削ろうとしたり、
生活保護費を削減したり、
中国との関係をわざと悪化させたり、
戦後もっとも悪政かもしれません。

子どもを盾に取って平気な政治屋さんたちが、
山本議員を「非常識」といきり立っているけれど、
ふくいちを国家プロジェクトにしない方が非常識。
国会で、一人の新人議員を叩く時間があったら他にやることは
いくらでもあるはずです。

11月8日からは4号機の使用済み燃料が取り出されるようです。
人類始めての作業を一企業がやる事自体が非常識ではないですか。

風向きによっては、避難だって事前に指示する必要がある
作業ではないでしょうか。
黙ってやるの?
まさかね。
ほんとに、怖いです。

ーーーーーー

さて、先月の稲刈りの様子を描きました。

ケント紙にグラフィックペン

ケント紙にグラフィックペン

一粒の種もみが400粒にも500粒になる様は
子どもたちの一生の思い出でしょう。

山本議員は、こういう一生懸命に生きる子どもたちの未来をを救いたいだけなのだと思います。

タネの話(2)/ヒマワリのタネを食べるカワラヒワの図

タネの話「その2」です。
自分の復習もかねて書いていたら、
少し長目の記事になってしまいました。

アルシュ紙に水彩、ガッシュ、色鉛筆

アルシュ紙に水彩、ガッシュ、色鉛筆


絵は、花が終わったヒマワリのタネを食べるカワラヒワの様子です。
食べる食べられるの関係で、自然界は繋がっています。
人間だってその一部です。

遺伝子組み替えの話をする前に、
17日のブログの最後に

ヒマワリの種は、昨年咲いたヒマワリから採取したもの。
この種は蒔くと花が咲くのかな?

え、タネを蒔けば芽を出すのが当たり前じゃないの?

……のはずが、どうも最近は様子が違うのです。
 人間はお金と効率のためには、いろんな事を考えるのです。

と書きました。

この話からしましょう。
野口勲氏の「タネが危ない」から取り上げます。

少し複雑な話になるのですが、
昔は農家では、その年に育てた作物から翌年のためのタネを取って翌年植え、
またその翌年(つまり翌々年)には前年の作物から取れたタネを植え、
と言う風に毎年毎年タネを引き継いで来ました。
代々の性質が変わらないので「固定種」と呼び、そこからタネを取ることを
「自家採種」と言います。

昔はこれが一般で、タネ屋では「一粒万倍」として売られていたようです。
タネの話(1)で一粒の種もみが500粒になる事を書きましたが、
まさに、永続農業ですよね。

ところが、この固定種は「商品」になりにくい、
という面があるのです。
というのは、

大きさが揃わない、
一斉に収穫出来ない

のです。

昔の八百屋さんは一キロ幾ら、で売っていたので、
大きさが揃わなくても問題無かったのですが、
今はスーパーなどの小売り形態が増え、大きさが決まっていないと
出荷納品などがロスが出ます。
また量も同じ時期に一定量が取れないと「商品」として取引出来ません。

と言うわけで、登場したのが「F1」(エフワン)と呼ばれる、
大きさが揃って一斉に収穫も出来る作物です。
今は市場にはF1種しか無いくらい、席巻しているタネなのですが、
遠縁の交配種で同じ形質を持った二代目は作れないのです。
つまり、自家採種が出来ないのです。
ということは、今の農家は毎年タネ屋からタネを買って
作物を栽培しているのです。

この話は私にとっては、かなり衝撃的でした。

検索してみたら、交配種とそうでない品種とはどう違うの?というサイトを見つけたので
もっと知りたい方はご覧下さい。

それから、少し脱線しますが、
タネの話は「メンデルの法則」そのものです。
おさらいしたい、という方は、
こちらの生物学基礎のホームページはいかがでしょう。
遺伝の法則のページ
このサイトの作者、和田勝氏の本

この本は、高校で生物を履修しない医学生のための本なので、
懇切丁寧に、詳細を図入りで生物学入門から分子生物学まで学べます。
それでも私なぞにはまだ難しい。
一度電子顕微鏡で細胞見てみたいなあ、と思ったり。

さて、その市場を席巻しているF1種はどのように作られるのでしょうか。
F1種は現在は「雄性不稔」(ゆうせいふねん)というやり方で
作られています。
「雄性不稔」というのは言ってしまえば、タネのインポテンツ。
野口氏は本の中で、以下のように述べています。

ミトコンドリアが傷つくことによって、動物も植物も子孫を作る能力がなくなってしまう。ミトコンドリア遺伝子の異常を起こした植物が雄性不稔のF1になった。我々はそのF1野菜を食べている。我々は日常的に、生殖能力を失った、ミトコンドリア異常の野菜を食べている。玉ねぎのミトコンドリアは玉ねぎ全体の重さの一割を占める。玉ねぎの異常遺伝子は脈々と受け継がれていくのである。
「タネが危ない」P.120より

ミトコンドリアってなんだっけ、という方は生物学基礎のページをご参照ください。
細胞の構造
「パラサイト・イブ」の作家瀬名秀明さんが書いた本もあります。

そして「雄性不稔」を利用したF1のタネは、
子孫が出来ないため、タネが盗まれることがなく新種を独占出来る、
というタネ企業にとってはおいしい「商品」。

しかし、野口氏は、本の中で警鐘を鳴らします。
科学的な研究がなされたわけではないので、あくまでも氏の推論と断りつつも、
最近ミツバチが一斉に消えた話や人間の精子が激減していることなど
もしかすると、この「子孫を作れない植物を食べること」と関係があるのではないか、
しかし、今はそれを証明出来ない、と言っています。

とはいっても、経営という視点を考えたとき、
F1を否定出来るものでは無い、と野口氏も書いています。

さて、雄性不稔のF1の話のあと
ようやく遺伝子組み替えの話になります。
長かった〜。でもこれから先の話はさらに考えさせられます。

遺伝子組み替えと言うと、組み替える植物の遺伝子を取り出して
人間が操作するのかと思っていたら、違うのね。
生きているバクテリアを使うらしいのです。
えええ、って感じですが、なので、
「アグロバクテリウム法」と呼ぶらしいです。

以下は、「タネが危ない」の152ページを要約してみます。
アグロバクテリウムはバクテリアの一種です。
土壌細菌で世界中どこにもいて、その辺りの土の中にもいっぱいいるらしい。
細菌というのは自分の大元の遺伝子は渡さないけれど、
「プラスミド」という小銭のような遺伝子をお互いにやり取りして、
例えば、ある細菌が除草剤に強い耐性を獲得すると、
除草剤に強い耐性をプラスミドに入れて、隣の細菌に渡す、
のだそうです。
これでドンドン除草剤に強い細菌が増えます。
そしてアグロバクテリアが植物の中に入ると異物とは見なさずに
取り込んでしまい、ガン細胞のように増え、植物は枯れてしまう。

この植物がプラスミド遺伝子を取り込んでしまう性質を応用したのが
遺伝子組み替え作物、というわけです。

遺伝子を組み替えるには、葉っぱを切り抜いて、
遺伝子組み替えされたプラスミドが培養された液に浸すと、
葉っぱの傷口からプラスミドがすべての細胞にはいり、
その葉っぱは一つの植物として成長。

すごいのは、
出来上がった植物細胞の一つ一つ、花粉の一つ一つまで
すべて遺伝子が組み替えられるということ。

そして、なんとなんと、
花粉がまた外に飛び出して、
交配した他の植物を遺伝子組み替えにして行く、のだそうです。
一度遺伝子が組み換えられると、花粉が飛ぶ限りエンドレスですね。

で、このホラーのような遺伝子組み替え技術で、
今のところは封印されているけど、超ど級に怖い技術に
「ターミネーター・テクノロジー」というのがあるそうです。
「自殺する遺伝子」と呼ばれるターミネータ遺伝子を組み込んだものだそうで、
遺伝子操作によってタネの次世代以降の発芽を押さえるのが目的。

農家の自家採種を何が何でもさせないぞ、
というテクノロジー。
強欲な技術であると同時に、
野口氏は、この「自殺する遺伝子」を持った植物が
根の細胞を通じて、寄生する細菌とプラスミドを交換しあったら、
とんでもないことになるのでは、と書いています。

今は封印されている技術だけれど、もし解禁されて、
このターミネーター遺伝子を持った花粉が世界中にまき散らされたら、
植物は次世代が作れないことになります。

野口氏は

植物の死は動物の死と直結する。一時しのぎの経済戦略が地上を死の世界に変えてしまう危険性を秘めている。(「タネが危ない」P.156より引用)

と述べています。

さて、生物学的な面だけでなく、社会的には、
遺伝子組み替え産業が世界の種苗メーカーの株を買って
ドンドン傘下に収めている、
という事実もあります。

2007年には、世界の種子会社は
一位モンサント、二位デュポン、三位シンジェンタという
バイオメジャーに占められました。

日本の種苗会社もいつ買収されるか戦々恐々。
タキイは上場せずに一族で株を持ってなんとか凌いでいるそうです。
検索したら、今日の日付で、世界の種苗会社のランクがのっていました。
種苗業界の世界勢力図

「タネを支配するものは世界を支配する」のでしょうが、
世界を滅ぼしかねない技術で儲けて、同時に自分達の生き物としての足下をも
蝕んでいることになります。
もし意識的に「我が亡き後は洪水来れ」と思ってやっているのでなければ
自分で自分の首を絞めているように思えるのです。

付け加えると、
先に名前の出たバイオメジャーを始め、世界の600ぐらいのグローバル企業に
日本市場を明け渡す、のが、いわゆる「TPP」です。

さて、最後に「タネが危ない」を書かれた野口勲氏の会社のホームページをご紹介します。
野口種苗

自分でタネが取れる野菜。いいですね〜。
作るのもワクワクしそうです。
私はなかなか本格的に野菜作りは始められないのだけれど、
楽しみが増えました。

   

タネの話(1)/ 3葉のイネの図

半年前、4月から田んぼ作りに参加してきました。
ついに昨日はハザ掛けから降ろして
脱穀でした。

脱穀機も足踏み式の古いもの。
次々と黄金色の粒がバケツに集められて行きました。
最後まで現場にいられなかったので、
総量はどのくらいになるのかわかりませんが、
軽く60キロは越えたのではないでしょうか。

今年は、雨が少なかったけれど、ギリギリ足りて、
また、刈り取りの前に台風が来る事も無く豊作だったと、
毎年行事のお手伝いをされている方が仰っていました。

もとはと言えば、一粒のタネもみ。
それが、水と太陽の力で、400粒にも500粒にもなるのです。

20130415
↑ これを蒔くと、
↓ 一ヶ月くらいでこうなって、田植えをして水をはり、
20130821001
↓ 最後はこうなります。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

一粒のタネから、鈴なりの実を成らす植物。
品種改良されているとはいえ、
まさに自然の恵みです。

しかし、この「一粒が500粒になる」タネ、人間から見ると、
一万円が500万円になる、と見えるのでしょう。
放っておく訳がありません。
「タネを制するものは食料を制する、食料を制するものは人類を制する」
と世界のタネ企業は、世界市場を支配しようとしのぎを削ります。

そのタネのお話を、タネ屋の3代目である野口勲さんが書かれた本が
タネが危ない」です。


何やら人を煽るような題名ですが、読み進むうちに、
タネをめぐる人間の飽くなき欲望が推進する技術には、
デンジャラスな匂いが立ちこめてきます。

その代表格が「遺伝子組み替え」(GM作物)です。

実は2週間ほど前に、映画「世界が食べられらなくなる日」を見て来たばかりです。

この映画は、カーン大学のセラリーニ教授が
モンサントのGM作物をラットに食べさせる実験を行い、
それを、ジャン=ポール・ジョーが映画にしたもの。
モンサント社の実験は3ヶ月までしか行いません。
それで安全と言って売っているのですが、
映画では、実は4ヶ月目からラットは死に出すのです。
ラットの寿命は2年。
2年かけた実験結果は恐ろしいものです。

で、この映画を作っている時に、ふくいちの事故が起き、
監督は必然的に原発問題もこの映画で取り上げることになります。
映画にはフランスの原発の実態も映し出されます。

そして、映画では、
「これは命の問題」
「政府は必ず嘘をつく」
「私達はモルモット」
「子どもたちのために戦う」
などという言葉がインタビューで頻繁に出てきますが、
原発の状況ととまったく同じです。

そして、ジャン=ポール監督は
原発と遺伝子組み替えという二つのテクノロジーには
三つの大きな共通点があると言います。
①取り返しがつかない。
②一度汚染されたら元に戻らない。
③世界中にすでに存在している。

ところがもっと恐ろしい事を、セラリーニ教授は説明します。
この二つは、似ているだけではなく、実際に「遺伝子組み替え作物」と「核技術」を開発したのは
250の同じ企業グループで、しかも彼らは世界の富の半分を支配していて、
この体制が支配層を生み、民衆を犠牲にしてきている。
彼らの利益のために、すべてが犠牲になっている、と。

まさに、1%と99%。

しかしですね、
私は思うのですが、確かに1%の人たちは核技術や遺伝子組み替えで、
莫大な利益を得ているかもしれないけど、
同時に他者の足下だけではなく、生態系という自分達の足下も崩しているように
私には思えるのですよね。

それはさておき、
映画のラットの実験は公表され、
その結果は「ヤバいぞ」ということになり、
ヨーロッパでは遺伝子組み替えは拒否されてきています。

それでも、先の野口勲さんの「タネが危ない」を読むまで、
私の「遺伝子組み替え」への怖さは漠然としたものでした。
腫瘍ができたりするから怖いものなんだ、というイメージ。

しかし、その技術「アグロバクテリウム法」を知ると、
もうイメージではなく、ほんとにやっちゃいけない事やっている、
という思いが強くなります。

この問題は、引き続き次回に取り上げようかな、
と思っています。

スケッチのコツ、差異の目と統合の手 / ハザ掛けの図

昔懐かしい、
稲をハザ掛けにして干している様子です。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

このハザ掛けは横に20メートルくらいはあるでしょうか。
それをやはり20メートルくらい離れたところから描いています。

どれほどカメラの技術が進んでも、
こういう構図は絵の方が遥かに得意です。

むしろ絵が得意、というよりは、人間の目の方が
カメラのレンズより得意、という事でしょうか。

絵の補助にと思って始めたカメラも
一万枚くらい撮りました。
少しカメラに慣れて来た、という感じでしょうか。
デジタルカメラはいくら撮っても捨てられるので
とにかく撮ります。
だからうまくならない,という見方もあるようです。
銀塩写真のように結果が出るまで分からないうえに、
現像や焼き増しにお金がかかれば緊張して
必死に考えて撮るから上達するというのもわかります。

でも私は、デジタルカメラに感謝です。
最近は,動くものは動画に撮って家で繰り返し見る
という事もするようになりました。

昔の人は,時間もあったし目も良かったのだなあ、
と改めて思うこの頃。
伊藤若仲さんにも歌川広重さんにも酒井抱一さんにも
リスペクト、深い深い尊敬の念を抱きます。

人間の目とカメラのレンズの話ですが、
上のような構図の場合,横を全部入れようと思うと、
カメラは広角にならざるをえず,どうしてもゆがみが出ます。
35ミリくらいで撮ろうとすると,何枚かに分けないと難しいです。
その点、人間の目で見て描く絵は,無理なく全体を描くことができます。

よくデッサンの本を見ると、
片目をつぶって鉛筆など長いもので測る,という場面が出てきますが、
私はほとんどモノを使って測る事はありません。
何故なら,人間の目は「差異」にものすごく敏感で
目の前に本物があるなら、下手に測るより
自分の目で繰り返し見た方が,違いが分かります。

銀行の事務員が印章の確認に紙をパタパタさせて
残像で確認するのも、人間の目が私達が思う以上に
差異に敏感である事の証左だと思います。

ただちょっとしたコツはあります。
絵から離れて、対象と距離を置かずに見比べられる状態にする事です。
極端にいえば、対象を見てから背中においた絵を見くらべても
小さな差異は見つけにくいです。

印章の紙をパタパタするように、
対象と絵を見比べる時にあまり目を動かさなくて
いい状態で見比べる事が肝心です。

さて、鉛筆で測る時にはたいがい片目で測ります。
当然の事ながら視点もずれます。
正確に測ったつもりでも狂いが出るのは、
片目で見るからですね。
片目になる度に対象物は、私の脳の中で移動します。

目が差異に強いのは形だけではありません。
色もそうです。
人間は2万色以上の色の差異を見分けられると言います。
最初に絵の具を買うとだいたい12色の基本色です。
もちろん、3原色(青赤黄)が有れば絵は描けるのですが、
混色すれば濁ります。
(今は子供用の濁らない絵の具,というのもあるようですが)
濁るけれども、私達は少しずつ色が変化して行く事が認識出来ます。
わずかな混色による差異も、人間の目はわかるのですね。

さて、その 「目の」見たものを脳が処理して
手が画面に色や形を再現して行きます。

この時に気をつけなければならないことがあります。
目と違って,手というのは差異より統合する力が
働く器官のようなのです。

どういう事かというと、
繰り返しとか左右対称など統合された形を手は好むのです。
見た通りに描いているはずなのに、
手は目が認識した差異をなかなか再現してくれません。
ついつい繰り返しや同じような形になって行くのです。

人間が作るものには繰り返しや左右対称が多いのは、
建築物を見ればわかる事です。
一方,人間も含めて自然のものには同じ繰り返しや
完璧な左右対称はあり得ません。
直線や円、球体も人間世界にしかないものです。

養老孟司さんの「唯脳論 」で
人間の頭の中には、こういう自然界にはない形態が
プログラムされているのではないか、
という一説を読んだことがあります。

それは確かめようもない説ですが、確かに
目は明らかに物の形や差異を見つけているのに
脳というフィルターを通すと、手が再現するときには、
統合の方向に向かうのかもしれません。

とすると、どうすれば良いのか。
自分の描いた絵を見て,改めてその絵の中に差異を見つけ出し,
修正する作業が必要になります。
「絵がうまい」というのはこの作業が出来るかどうか、
なのだと思います。

そしてこの時点までの認識や作業手順は
訓練すれば手にすることができるスキルのような気がします。

ただ、形や色がそのまま再現されたからと言って
対象の持つ魂や命の輝きが写し出せるとは限らないのが
絵の不思議なところです。
多分写真もそうですね。

自分が描いているときを思い出すと、
見たものを脳のフィルターを通る時になにか
化学作用が起きて、手にそれが伝わっていく、
そんなことが起きているのかもしれません。
もうその時には、形の再現には手がこだわっていないことが多いです。

さて,今は田舎でも珍しくなったハザ掛けの様子は、
今週末くらいまで東京港野鳥公園の自然生態園で見られます。
運が良ければ、エゾビタキなどの旅鳥も見られるかもしれません。

   

小さな虫博士や鳥博士を応援する/小さなスイカと虫の図

週末は、稲刈りでした。

私達大人はもっぱら子どもたちのサポート。
子どもたちが刈った稲を、去年の稲藁を使って束ねます。
稲を刈る作業は鎌の使い方が分かれば
子どもたちでも問題無いのですが、
束ねる作業はかなり力がいるので、なかなか大変。

さて、刈る前の田んぼや周りの草むらは昆虫の宝庫。
子どもたちは、カマキリやイナゴを上手に捕まえて
虫かごに集めます。
これは帰る時に放します。虫のキャッチアンドリリースですね。

で、私はちゃっかり、子どもたちの集めて来た
虫さんたちを、スケッチさせてもらいます。

ところが、描いていた私の絵を覗き込んで、
「下手だね」という男の子がいるのです。
あれれ〜と思っていると、
「足にはもっととげがあるよ」とか
「目はもっと横だよ」と教えてくれるのです。

話を聞くと、
小学校4年生で一年生のときから区の絵のコンクールに
虫の絵を出して、銅賞、銀賞、そして金賞、と総なめにして来たらしいのです。

実は、子どもの中には、
こういう「虫博士」や「鳥博士」がいて
よく知っているだけではなく、絵も上手な子どもが時々いるのです。

鳥博物館でも、
「ワライカワセミはオーストラリアにしかいないよ」などと
教えてくれる男の子がいました。
その子どもは、見ないで、
「これはユリカモメ。こっちがセグロカモメ」
と違いも分かるように描いてくれました。

こういう子どもたちは、一様に図鑑が好きで、よく名前を知っていて、
毎日見ているから、絵も描けるんですね。

そういう子どもたちに会う度に、
好きなことをこのまま続けられると良いな、
と思うのです。

解剖学者の養老孟司さんが、小さい頃は昆虫少年だったと言っていますし、
昆虫や鳥の観察は、科学者の第一歩でしょう。

このあと、中学に行ったり、大学受験など
様々な人生の関所が待ち構えていて、
「末は博士か大臣か」何て言われた子どもも
普通の大人になるのかもしれません。
(最も大臣なんて、今はありがたくもないですけどね。)

ま、人の人生はわかりません。
いろんなノウハウ本が出ていて、
人生は思いのままにコントロール出来るかのような風潮ですが、
実際は、自分が選べることは、そう沢山ではありません。

それでも、今一生懸命、鳥の名前を覚えたり、昆虫の絵を描いている子どもたちを
心から褒めて応援したいと思います。

たくさんの「自慢できること」は子どもたちを元気にするし、
強くもするでしょう。

実は、小さいときから、目上に褒められたこと、
というのがほとんど無い私です。
大学の進路を決める時には、
「色彩の才能がないから絵には行くな」とまで、高校の絵の先生に
言われたくらいです。

実はこの先生、私が美大を出てから、
手紙をよこし、「あのときは悪かった」と謝って来たのですが、
なんて残酷なのか、と怒り心頭になった事もあります。

私の個人的な経験だけではなく、
社会全体が、いいところを見るより、
負の部分を直すことに重きが置かれ過ぎていますね。

「子どもは未来」。
この当たり前なことがこの社会に根付くのはいつでしょうか。

子どもたちとの交流では、
絵を描いているとすぐお友達になります。
一期一会でたいしたことは出来ないけれど、
一緒に楽しめればいいのかな、と思っています。

紙に色鉛筆、水彩、グワッシュ

紙に色鉛筆、水彩、背景はグワッシュ

さて、今日の一枚は、小さな胴回りの直径が8センチくらいのスイカに
ナナホシテントウとショウリョウバッタを配してみました。

そう言えばテントウムシは子どもたちにすごい人気です。
カマキリも大きくて捕まえやすいこともあるのかもしれませんが、
大人気でしたね。

カマキリは以前、こちらでアップしています。

   

みずほの国の秋

みなさん、お元気ですか〜。

私は先週末くらいから夏の疲れが出たみたいで
身体の節々が痛くだるく、更新が空いてしまいました。

実は、それだけではなく、
生活のリズムも朝型に変えていたのです。

ホームページを作り、特にブログを始めてから、
毎晩夜が遅くなっていました。
ネットをやっているといくらでも夜更かし出来ちゃいます。

もともと睡眠時間はあまり長くない方なのですが、しかし、
夜更かしが続くと、朝が遅くなり、一日があっという間に終わってしまいます。

なんとかしたいと思いつつ、夏の間は、
暑いだけで生きているのがやっとという状態でした。

このところ涼しくもなってきたので、夜の熟睡度も上がり、
6時前から作業が出来るようになってきました。

ようやく生活が朝型リズムにのって来ました。

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さて、4月に始まった田んぼ作りも、いよいよ稲刈りです。

刈り取り寸前の田んぼの様子を見てきました。
稲穂は落ちんばかりに実っていました。

まさにみずほの国の秋ですね。

紙に水彩と色鉛筆

紙に水彩と色鉛筆

書きたいことはいろいろあるけれど、
せっかく稲のスケッチをアップしたので、
ゆっくり見て行って下さいね。

ではでは。